木蓮のつぼみのように手をすぼめ袖を通ったのちにひらいて

椎本阿吽『短歌研究2025年7+8月号』

冬の朝、子どもが着替えるときにまずはTシャツを着せ長袖Tシャツを着せ、その上にトレーナーを被せる。時間がなければとにかく順にどんどん着せて、すると最後に被せたトレーナーの袖のなか、二の腕あたりがもこもこして着心地が悪そうだ。やり直し、と言ってまたトレーナーを脱がせる羽目になる。長袖の上に長袖を着るとき、大人の私は無意識の動作のうちに、すでに着ている長袖の裾を掴んでトレーナーやセーターの袖を通している。でないと、上から着た長袖に肌着の袖が持っていかれて腕のあたりで巻き取られてしまうから。子どもにも「次はちゃんと袖掴んで」と言う。言えば子どもはしっかりと両手で肌着の袖を掴む。

掲出歌がそのような二枚重ねの長袖を着る場面かどうかはわからないけれど、地肌から直接袖を通す場合に手をすぼめる必要はおそらくないから、やはり上にもう一枚長袖を着るときの動作のバリエーションとして、主体は手をすぼめたのかもしれない。すぼめた形が「木蓮のつぼみのよう」であるという。ちょうど年が明けてぐっと寒さの増すこの一月から二月にかけて、木蓮はあの毛深い蕾を太らせて、見上げるたびに少しずつ膨らんでいく。そのさまをありあり思い浮かべる。手をすぼめたつぼみの形として、木蓮はほんとうにそのままシルエットがぴったりだし、いざ開いた花の形も、そのすぼめた手を少し開いたような、少しずつ角度の違う指の形のようで、木蓮とはつくづく人の手の握って開く、絶妙な形の瞬間をうつしているようだ。

きっと誰もが無意識に行っていて、それで誰にも話さない動作がおそらく生活のうちには無数にあって、毎日手をすぼめて袖を通し、開いている。一首における、主体の生活のひとつの動作はこうして記されればほのかに熱を帯びて、思えば一首自体がそのまま「むすんでひらいて」の手遊びのように、ゆっくりと口ずさみたくなる。預かり知らぬうちに、生活のなかに誰かの無意識の動作があり、それを知ればうれしい。その手はさきほど木蓮のつぼみであった。すぼめた手からは花が咲いた。着替え終えればすぐにどこかへ駆け出す子どものお腹が冷えないように、ズボンのなかへ三枚分の服の裾を押し込める。もこもこのお腹で子どもは駆け出す。

じゃんけんで負けてしまえばそのままの指であなたのグーを切る真似

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