金田光世『遠浅の空』(青磁社)
一般にスーパーに売られるしらすにはしっとりしたものと、乾燥したもの、ふたつがある。しっとりしたほうは魚の切り身と同じようにトレーに乗せられ、並べられ、賞味期限が短く、買えばすぐに焦って食べる。乾燥したほうは悠長に構えて、長い間流しの下に無造作に入れっぱなしにしていると、揉まれて割れていたり、袋の下のほうに小さな目玉が取れたものが溜まっていて、(全部目玉)と不気味に思ったりする。もしもそのまま育てばイワシ一尾として、それでそれなりに満腹になるところ、稚魚のうちに大量に獲って干され、数えたことはないがおそらく一度に軽く何十匹か分をご飯にかけて食べている。たまに、いいのかな、と思う。思うものの、栄養価も高く、子どもにも食べさせやすく、何よりおいしいから買ってしまう。
「命をいただく」というような言葉があって、肉も魚も毎日のように食べていながら、その意味というか「いただく」のニュアンスのことは考えていない。というよりずっと保留のままで食べつづけている。ほんとうにはすべて命であることに相違はなく、この小さなしらす一匹にも命があった。けれど、むしろこんなに小さく、また多ければ多いほどその「命らしさ」は見えにくくなり、やれバターに醤油を垂らすだとか卵を落とすだとか生しらすであれば生姜醤油がうまい、などと節操なくばくばく食べる。しらすかけ放題、を謳うような店だってある、たまたま行った店で勧められれば自分はよろこんで頼むだろう。倫理的に、というと大仰かもしれないが、しらすは食べないことにしている、という人の話を聞いたことがあり、たしかにそれくらい、もちろん魚一尾であれ、命を食することに変わりはないが、それにしてもあれは、数えきれないほどたくさんの「死」の食べ物だと思う。
「ずつとずつと」という反復に、箸をさして掬っても掬っても、という量的な永続性の把握と、それ以上に、より永きにわたって食べつづけてきたひとりの、というよりも人間の大量に摂取しつづけてきたしらすの死、その蓄積、そういう連綿さを感じさせる。「死があり/しらすぼし/白飯(しろめし)」という「Shi」の音の連続、また「し」という文字のかたちまで、曲がった一尾のしらすのようで、一首のなかにしらすの姿がいくつも浮かぶ。浮かびながら、そうであれば「黙々と食ふ」ことがしっくりとくる。しらすはきっと朝食にせよ夕食にせよ、日常の食卓にこそあって、無意識にうまいうまいと思いながらも頭では別の考えごとがあったり、かきこんで食べて出かけたり、淡々とした暮らしのなかにある。向き合って食べるような厳粛さも高級さもなく、ただ大量の死がそこにはあって、一度にたくさん口に入り、咀嚼され、消化される。急いでいれば一つふたつ落としても構わずに、日が落ちるまでテーブルの下で乾燥しているものもある。
素焼きの犬のごとく寂しき週末は存分にくしやみをするのがよい
