石川美南『体内飛行』(短歌研究社)
子どもの頃、コンロの火に興味があって、ティッシュをコンロの火にそっと近づけてみたことがある。火は当然一瞬でティッシュを飲み込み、それでどうなったのか。親が飛んできたのだろうか。さいわい火事にはならなかったけれど、想像よりもずっと素早い火の力に驚いて、以来そんなことは二度としなかった。
と書きながら、この記憶自体、そもそも夢かもしれないと思う。何かを燃やしてみたい、という好奇心があったことは覚えていながら、ほんとうにティッシュを近づけたのだったか。ただやってみたいという思いが強すぎただけで、実際にはやっていないのではないか。もう思い出せない、と思うときそれは夢だったのかもしれないな、となんとなく思うことで諦めるというか、実はそれが一番妥当であるような気がしてくる。
こうすればああなる、という摂理や原理というのか、たとえば紙をコンロの火にかざせばたちまち紙は燃えあがる。その事実を、この目や手でどうしても確かめたくて、うずうずする。「こうすればああなる」ことのいくつかは、取り返しのつかないもので、火遊びももちろん大人がいなければ火事になったかもしれない。高いところから飛び降りたらどうなるだろう、と思って飛べば当然命を落とす。気に入って着ていたダッフルコートの紐の部分、あれも鋏をあてれば、ほんとうには簡単に切れてしまう。その衝動性というのか、頭のなかでこうすればああなる、という想像をめぐらせて、やってみたくてたまらない、やろうと思えばすぐにできてしまう、できてしまって、そうしてそれはもう二度と元には戻らない、そんなことを考えてしばらくうっとりする。
濡れた手で紙を触れば紙は濡れる。指先の水が移って滲みだす。手紙に書かれていた文字にまで達して、いくつかの文字は読めなくなるかもしれない。触れる、のではなく「摑む」というのが面白く、濡れた手で摑めば当然濡れる範囲も広くなり、その手紙はもうぜんたいがしっとりと湿っている。それが「夢のやう」ではなく、「正夢のやう」であるのは、現実のもの思いを経て、夢のようであるうたがいや、可能性までをめぐった果ての感覚に近いのかもしれない。いや、もしかするとその手紙は、まだ濡れていないかもしれない。それは誰からの、どんな内容のものなのか。そもそも、手紙すら想像のなかにしか存在しないのかもしれない。皿洗いや、手洗いのあとのまだ濡れたままの手、一日のうちに私たちは何度か手を濡らす。生活のなかにあって、濡れたその手でもしも、手紙を摑むことがあるならば、その手紙は想像どおりに濡れるだろう。手紙の文字が滲んで判読不能になるさまを、どこかうっとりと想像している主体が浮かぶ。
しらぬ間に握つてゐたるレシートを伸ばせば三日前の、切手の
