澤村斉美『竜の眠つてゐた跡』(砂子屋書房)
「3.11」「9.11」もそれが起きて以降、それまで特別な意味もなかった日付が一変する。震災やテロなど突然起こる何かによってすべてが変わることは、たとえば「8.15」とは意味が異なる。もちろん当時を生きた人々にとってはリアルタイムでその年、1945年8.15が終戦の日と定められ、以後その日はあまりに大きな意味のある日となる。いっぽう平成生まれの自分にとっては生まれたときから「8.15」にはすでに絶対的な意味があった。
「二時四十六分」という時間を、私たちは東日本大震災の起きたその時刻であると知っている。「3.11」を、つまりは2011年以来15年、その日が近づくあたりから徐々に意識しつつ、その日のその時刻、「二時四十六分」 も同じだけ、つまり15年分刻まれている。あの日のその時刻を迎える直前の時点では、みなそれぞれ、3月の穏やかな一日を過ごしていた。と言いつつもちろん穏やかでない人もいたと思うが、そのようにして一括りに束ねられることなく、それぞれがそれぞれの生活を文字通り営んでいた。
掲出歌のひとつ前に〈全国の東急ハンズでするといふ黙たうのアナウンスに出くはす〉とあり、2011以降のいつかの3.11に主体は「歯ブラシ」を「どれにするか迷」っていた。東急ハンズであれば、その一本を選ぶにも、売り場にはものすごい数、種類の歯ブラシが並ぶのだろう。「かため」「ふつう」「やわらかい」「コンパクト」「ワイド」「波型」「山カット」色は、柄は、とよりどりみどりであり、悩ましい。迷い始めると埒があかず、だいたいこんなことで真剣に悩むなんて馬鹿らしい、とどこかでわかりつつそれでも悩んでしまうのは、適当に選んだ歯ブラシが絶妙に合わないことによる不快感はそれこそ馬鹿にできず、つまりは毎朝毎晩の口内の快適さにかかわることであれば、気づけばこんなにも真剣に歯ブラシを選んでいる。
それが、誰も予期などしないうちに、あまりに突然にその時刻は訪れて、これまでの生活におけるさまざまな選択、言ってしまえばそのわずかな差異、微差の部分を一瞬で反故にする。すべては「生きていれば」という仮定に収斂するように、どんな歯ブラシだっていい、いや歯ブラシなんていっそなくてもいい、ただ生きていればいい、無事であればいい。そのようにさま変わりする、してしまう、問答無用にされてしまう。そういう人たちがあまりに多くいたし、いまもいる。
ふと、その日その時刻に東急ハンズの歯ブラシコーナーで黙祷の一分間に立ち会う。2011年の3.11、その瞬間にいまの自分と同じように歯ブラシを選ぶ人もいただろう。好きなように歯ブラシを選べることは幸せだと思う。というよりも、それを幸せだと思ってもみないことが何より幸せだと思う。思いながら、自分の選んだ歯ブラシ一本から、どこまで、誰の何を思えるだろう、何を想像できるだろう。どこにいても、どんな暮らしでもほんとうには誰もが好きなように、真剣に歯ブラシを選べるほうがいい。
もう一つの事実のやうに立つてゐる児童公園入り口の梅
