映像よ遠くのものが見えるのはをかしい遠くは聞こえるだけだ 

金尾釘男「バゲット」未来2015年1月号

たとえばドーンと鳴る音を聞いたとして、現実の世界で「遠くの音を聴いている」と感じる時、音の発信源は見えないところにある。花火の音かもしれない。ガス爆発だとしたら、逃げなきゃ。逃げられるか、確かめなければ。見えない方が怖い。

はじめ、この歌の「映像」はブラウン管のテレビが映す映像だと思った。現代に生きる人間は映像を見ることに慣れすぎている。初めてテレビを見た人なら「遠くは聞こえるだけ」と感じるかもしれない。映像には映される<現地>があって、カメラからの視点を通して、私が今いる現地ではない映像の中の<現地>に立つ。音響設備が充実していれば音の遠さはリアルに感じられるが、発信源が見えなくても現実ほどの怖さはない。「をかしい」と感じるのは、古くて小さなテレビの内蔵スピーカーから発信される、周波数帯の絞られたサウンドだからではないだろうか。「遠くの音が目の前のテレビから鳴っている」と感じ取れてしまう。デフォルメされた音像は映像に付属する記号となる。無音ですら、映像の演出に使われる。

もう一度読み直してみると、自分の印象が変わっているのに気づく。映像を映す画面がテレビかどうかは関係なく、作者は「映像よ」と映像の概念に呼びかけて、疑おうとしている。

映像に「をかしい」と言える認識力に戦慄する。と同時に、この「をかしい」は作者自身に向けて「おかしいことに気づけ!」と暗示をかける言葉のようにも思う。「をかしい」は映像と現実が混濁して引き剥がせないような、映像に取り込まれそうな感覚を振り払う呪文なのではないか。四句の句割れによって文章が変わる「をかしい」「遠くは」の間に呼吸を挟まずに読める。定型のリズム感と読むテンポは変わらないが、句割れが起こる際に間を置かずに読もうと意識すると「をかしい」の語気は強まり、字余りが確定する「遠くは」は少し急いで読むようになる。句の途中での文章の切り替えようとする意識からは、抑え難い衝動の発露を読み取れる。

棺の窓ひらきぬ見たまへ冬晴れの蔵王に淡き虹かかりゐる/桜井登世子『夏の落葉』

同じく、八音の句に句割れが起こる歌を引いた。桜井の歌の場合は二句で「ひらきぬ」「見たまへ」の句割れとなる。蔵王の山にかかる虹を見て、衝動にかられて虹を「見たまへ」と夫に語りかける絶唱が強烈な余韻を残す。初句六音字余り・二句句割れ+二句切れの壮絶な調べを持ちながら、最後まで写実の姿勢を崩さない。桜井の「見たまへ」と金尾の「遠くは」は、どちらもその直前の文脈を引き継ぎながら言葉の向き先を変えているように見える。桜井は独白→他者への語りかけ、金尾は反対に語りかけ→独白へ変わる。八音の字余りは定型のリズム・テンポに収まるように読むのが自然だが、句割れが加わると語気がより強く際立つ。

桜井に比べて、金尾の歌の句割れには声を荒げていう意識を読み取れる。句割れの周辺の構造によって読む体験はどう変わるのか。文章で読みの感覚を書くのがつらいので、歌を読むときの個人的な感覚を「息遣い」と「定型感」にわけて記号を考えてみたので、歌に記号をつけて整理してみる(この方法がベストとは思わないが、試みまでに)。

  • 息遣い
    • 小休止¦(呼吸ほどではないが間を開けて読む)
    • 呼吸|(一呼吸置いて読む。句切れと一致する場合がある)
    • 太字(語気を強くして読む)
    • !(大声で読む)

映像よ¦遠くのものが¦見えるのは|をかしい!遠くは聞こえるだけだ

  • 定型感
    • 句分け /(五七五七七の句の単位の感覚)
    • 句切れ⌇(文の切れ目。句の途中にある場合は句割れとなる)
    • 句跨り -(小池光「句の溶接技術」参照)

映像よ/遠くのものが/見えるのは/をかしい⌇遠くは/聞こえるだけだ

定型感を強めに意識して初句「映像よ」を句切れとしても良いが、字余りの「をかしい遠くは」が歌の最も重要なフレーズなのと結句も「聞こえるだけだ」で句切れがあるので、初句は抑えめにさらりと読んだ方が良さそうだ。初句から「をかしい遠くは」に向かうまでに小休止を2回挟んで少しずつ語気を強め、「見えるのは」の後に一呼吸を挟み、「をかしい」を読む。二句での句割れと異なり、四句までくると五七五七と反復して読む期待が大きくなる。句割れは破調なのでリズムを崩す力と定型に戻ろうとする力が両方ある。二句より四句のほうが定型への期待が大きいので、定型に戻ろうする力は大きいだろう。この力がどう作用するかというと、句割れが起こる句の直前の句末で一呼吸置いて読む、となる。そのため三句の句末は句切れではないが「見えるのは……」と間をおく感覚がつよくなる。文章の終わりと句切れが一致するときの一呼吸とは異なり、文章はまだ続いているために次に続くフレーズとのつながりを意識した一呼吸だ。しかし次の句は句の途中で文章が終わるので「をかしい!」と突然声を荒げるような印象となる。二句に句割れがある場合、初句の終わりは、まだ歌がはじまったばかりで定型のリズムに乗り切っておらずつよく息を吸う感覚はない。この呼吸の強さの違いが桜井と金尾の句割れを読む体験に違いをもらたしているのだと思う。

金尾の四句八音は定型のリズムに合わせるように詰めて早く読み、間を置かずにそのまま結句まで一気に読んだ。「をかしい」「遠くは」の頭のオ母音の繰り返しがあると、前後の声の雰囲気が変わる感じがする。

このような感覚を読み取れるなれば、言葉の向き先が<映像の概念>と並行して<自分自身>にも向けられる(独白感が強くなる)と読んでも良いのではないか。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です