佐藤りえ『フラジャイル』(風媒社)
いま差し向かいに顔を向ける相手の顔面にいくつほくろがあるのか、またどこにあるのか、たとえば鼻の横に大きなものがあればむしろ目立ってその人の顔を認識させるポイントになったりもするし、目の下に薄いほくろがあるのを勝手に羨んで、そういうときはアイラインで描き足せばよい、というような地味ながら実際にはやらないだろうなぁという謎のアイデアをティーン誌で読んだこともある。
けれどそのような印象的な(魅力的な)ほくろがない限り、親しい相手であってもなかなかぱっと数もその場所も正確には表せないものだ。なんなら自分の顔面のほくろの場所、数を知らずにいる人だっているだろう(ほんとうにどうでもいいけれど、私は顔にほくろがひとつもない、それがつまらなくてずっと寂しい)。
毎日顔を合わせる家族であっても、だからひとり一人の顔面のほくろの数やその位置を把握しているかと言われれば、どうもあやしい。ほくろに限らず吹き出物だとかシミだとか、日々のコンディション、のみならず年々の不調、加齢によって顔にあらわれるものは変化する。家族に「ニキビできてるよ」などと指摘する(される)ことはたしかにあって、そのように表に晒されている「顔面」から、挨拶がてら、その様子を伝えたりする。まじでやなんだけど、あごにきびー。などと折々返す。
「蛍光灯の下に集いて」は場面としては一家団欒のシーンなのだと想像するが、何やら夜闇のなかに灯る光に集まる虫のような、そういうイメージも同時に浮かぶ。家族という名のひとつの集団として、蛍光灯の下に一日に何度も集まって食事を共にする。毎日顔を合わせるくせ、それでいて、いやそれだからこそお互い改まって顔をまじまじ見るような機会もなく、だから家族の誰の顔のほくろの数も把握していないのではないか。星座のように季節によって動くことがあったとしても、きっと気づかない。
健全なコミュニティというのは、ひとつに互いの変化に気づける、気づけば声をかけあえることだと思うが、なんとなく、この歌の家族はみな俯いている。機能不全だとか言いたいわけではなく、毎日毎日飽きるというような次元ではもはやなく、ただ食卓に集って共に過ごす。過ぎた年月の分、みな同じだけ年老いて、はっと顔を上げればほくろどころではない、ぎょっとするような変化があるのかもしれない。けれどあまりに長い時間をそこで過ごした者同士であるからこそ、むしろお互いの変化にはいっこうに気づかない。そういう自分も、夫や子どもの顔面のほくろの場所と数を把握していない。ただそこに集まれば、我々はきっとそれなりにほくろの多き集団である。
また歌のなかでは結句に「なりき」とあって、そのような一個の集団もすでに回想のなかにある。散り散りの遠い星のように家族ひとり一人のほくろは闇はばらばらに散らばって、もうどこにあるかわからない。
一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン
