午後五時に、冬のあいだは四時半に音楽の流れる町にいる

平川綜一「深呼吸」ねむらない樹vol.6

今わたしは音楽が流れない側の町に住んでいるので歌を読んで懐かしい気持ちになった。小さいころに住んでいた町では朝・昼・夕方の3回、部屋の中にいても分かるほどの音量で定刻を継げるメロディが流れていた。特に夕方は、それを聞いたら家に帰られなくてはならず、楽しい時間の終わりを告げる悲しい知らせであった。童謡の「夕焼小焼」の電子音は少し歪んでいて、テープが間伸びして音程も怪しかった。古い放送設備をずっと使っていたのだと思う。そういえば、放送用のスピーカーがどこにあったらわからない。音の強さから考えると家からそう遠くないどこか、小学校か市役所の屋上から流れていたのだろうが、物心ついた頃からずっと聞いているのもあって、どこで鳴っているか考えたことがなかった。山や海と同じく当たり前にそこにある風景の一部であった。音が遠くの山々に反射して残響が起こり、ふんわりと町にこだましていた。

初句の音「ごごごじ」の濁音の連続に驚く。歌を最後まで読むと歌の全体の感触としては結句の「町にいる」を強く感じて、初句の音の感触は遠くなる。「午後五時に、冬のあいだは四時半に音楽の流れる」までが長い序詞として「」にかかっているからだろうか。

◆句の単位の分け方(「-」は句跨り)
午後五時に、/冬のあいだは/四時半に/音楽の流-れる町にいる

◆音読するときの呼吸の取り方(「|」は長い間、「¦」は短い間
午後五時に、|冬のあいだは四時半に|音楽の流¦れる町にいる

細かい句の単位を意識せず「音楽の流れる町にいる」を散文的にひとまとまりに読んでも良いが、上の句は「午後五時に」「四時半に」句末の「に」が刻むリズムが心地よく、定型のリズムで読みたくなる。下の句の音楽の流-れる町にいる」は四句結句の句跨りとなりリズムが崩されそうになるが、上の句が期待させる心地よいリズムの展開を保とうとして最後まで読み切った。句跨りを超える一瞬に感じるリズムの不安定さをどう読むか。

主体がこの「」に暮らしているなら結句は「住む」とするのが自然だと思う。生まれ育った町に住んでいるならあえて「いる」と意識しないだろう。「音楽の流れる町にいる」の「いる」の客観的な把握は、一時的にその場にいるような言い方に見える。とはいえ、旅行で数日滞在しただけでは「午後五時に、冬のあいだは四時半に」と認識するのは難しい。日常と言えるほどの時間を過ごしていなければ季節によって変化する音楽に気づけない。そうすると、この歌には、長い時間を過ごしたかつての<経験>と、この瞬間にいる<感覚>が、一首の中に含まれていると読めないだろうか。

句跨りの破調は、歌の内容から感じる懐かしさのうしろに暗い感情に読み取るのを許してくれる。一度「」を出て、しばらく時間が経ってからまた戻ったのだと思う。たんなる一時的な帰省とは言い切れない、屈折感がある。破調がなければただそこに「いる」歌だったかもしれないが、「いる」を歌い切る直前の一瞬の間(なが……れるまちに)からは「いる」を選ぶことで消えてしまう他の言葉の可能性を感じる。この歌の結末としての「いる」意識には、「いなければならない」不如意な感覚、諦めの感覚が読み取れる。

午後五時に、冬のあいだは四時半に音楽が鳴る町に来ている(改作1)

句跨りを無くしてみた。こうすると定型のリズムですんなり読めて、歌の重心(強く感じる部分)が全体に分散し、原作に感じた「いる」の過剰な意識はなくなる。「いる」感覚が減る代わりに、歌の印象はぼやける。原作の場合、歌の重心は「音楽の流れる町」にある。かつての町といまの町が相変わらずに同じタイミングで音楽を流している。その変わらなさが、さまざまな経験を重ねて変わっていく主体にとっては苦しく感じられる。「いる」はこの苦しさを静かに受け入れるための語の選択だと思った。

午後五時に、冬のあいだは四時半に音楽の流れる町に立つ(改作2)

午後五時に、冬のあいだは四時半に音楽の流れる町におり(改作3)

結句を「いる」と似たニュアンスの言葉に変えてみた。「いる」と比べると、町の中にいる自分の位置を客観的に捉えている感じが強くなって、調べが浮いてしまう。余計なニュアンスをつけない、ただ存在するだけの「いる」の方が「」と一体になっている感覚が出るだろう。句跨りのリズムの屈折感があるこの歌においては「いる」の方が苦しいのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です