中井スピカ『ネクタリン』(本阿弥書店)
欲望についてのひとつの真理だと思う。それでまず思いついたのは、あまりにかけ離れた例ではあるけれど、出先で同行者に付き合う形で、または通りかかったからついでに、とお手洗いに行った際に、いざ行ってみれば行ってよかった、行きたかったんだ、とわかることがよくあって、ほんとうに歌とはかけ離れた尾籠な話で恐縮なのだけれど、排泄でさえ、もちろんしたくなってしていることのほうが多いはず、と思いつつ案外と、さほどの尿意はなくとも便座に腰を下ろしてみれば初めて「したかったんだな」と気づくことがやっぱりある。
そのような生理現象と同じものとして並べられるかどうか、けれど本能的なものとして言われやすい性欲や、その周縁にある欲望についてもやはり、ほんとうに「したい」ことであるかどうかは、してみなければわからないのではないか。あるいは、してみたとて、ほんとうにしたかったかどうかをわかっているか、わからない。何にせよ、わたしたちは己の欲望をそれとして疑いすぎないように思う。触れたいから触れるのだと、ほんとうに触れたいのだと、どうして言い切れるのだろう。たとえば誰かを好きだからといって即座に相手と触れ合いたいかどうかはわからない。自分の指向として、あるいはもちろんそのときどきによって、そもそも相手に触れたいかどうか、その上で触れられたいことと、触れてみたいこと、触れ合いたいことはほんとうにはいつも違う。自分と相手と、そのときの気持ち、感覚、いつもすべて違うありようでそれぞれが存在し、どちらかがそれでも相手に触れて初めて、触れ返されるという応答があり、場合によって、その日のふたりによって、触れ合うかたちに移ってゆく。
だからほんとうには本能など馬鹿げていて、自らの欲望をわたしたちはもっとつねに疑っていい。おずおずと、「消去法」のうちに手を伸ばしてそっと相手の指を取る。「指をからめる」というたんに手を繋ぐことよりもある意味でふたりにだけ許された行為を選ぶさまに、はりつめた尊さが宿っている。ムードも雰囲気もそんなものはほんとうには幻で、勢いなどはもってのほかで、さりとて理性的であれ、と戒めるわけでは毛頭なく、疑いながらこそ、ひとつわたしたちの欲望はそこにあらわれて、行動のうちに、応酬ののちに、反省や結果として感じられうるものなのだと思う。いつも、私はあなたへ触れたいと思う必要はむろんなく、触れたいと思ってもよく、思った欲望はひとときそこに停滞して、仮に果たされずとも、そのうち気圧のように去っていく。
展開図少し違えて二人して牛乳パックを真白く開く
