梶原さい子『ナラティヴ』
チンアナゴといえば、水槽の砂地から細長いからだを伸ばし、流れのなかで揺れている姿が思い浮かぶ。水の中にいることはあらためて言う必要がない。にもかかわらず、この歌はあえて「水中の」と言い添える。
もし「砂地よりからだを伸ばしゆらゆらと風に吹かれてゐるチンアナゴ」としたならどうだろう。水の流れを風に見立てた発想が前景化し、比喩の輪郭はくっきりする。しかし同時に、説明めいた印象が残るだろう。読者は「ああ、水流を風にたとえているのだな」と理解し、そこで読みが一度止まる。いわば、比喩に「オチ」がつきすぎるのである。
原作の「水中の風」は違う。水の中に風が吹くという、発想はすんなりと理解できる。なぜなら、チンアナゴがいるのが水中であることは自明だからだ。その自明さが、比喩の不思議さをやわらかく包み込み、発想をたしかな感触として伝える。読者は「水中の」で一度歌のなかの状況(砂地と水中の関係)の判断を留保した状態で「風」に出会う。水の流れは目に見える物理現象ではなく、触覚をともなった運動へと変わる。
また、「水中の」と置くことで、「風」は完全な空想ではなく、水という媒質を透過したものになる。風と水流のあいだに境界が引かれつつ、その境界がゆるやかに溶ける。チンアナゴはそのあわいに立ち、吹かれている。
風に流されている、のではないところがこの歌のポイントだと思う。チンアナゴはプランクトンを食べるために水の流れ(風)に逆らって、流れのほうをむきつづける。
説明を避けるための省略ではなく、あえて言い足すことによって比喩をやわらげる。その慎重さが、「水中の風」という一語に凝縮されている。チンアナゴが向かい風の中で体を保ちながら揺れる緊張感を汲み取っているように思う。
