永井陽子『永井陽子全歌集』(青幻社)
一読したときに、歌のなかに並べられた三つをベン図的に示せばふたつの円の重なる真ん中に「桃の木」がくるな、と思った。歌の作りからは、目にした桃の木からひな人形を連想したのかもしれないが、三つ目に月光がくるのがふしぎな気もする。月光も桃の木も自然のものであり、桃の木は「桃の節句」と言われるように人間の文化とむすびついて、私たちは桃の花とともにひな人形を飾る。ついこのあいだ、Xで流れてきたのだったか、五月人形はそれ単体で完結しているのに、なぜひな祭りの場合お雛さまの隣に男がいるのか、女の子のお祭りなのだから女だけでいい、というつぶやきを見た。思えばひな人形それ自体が婚姻の言祝ぎであり、それはそのまま呪縛でもある。じっさい、ひな飾りを仕舞わずにおくとお嫁に行き遅れる、などとほんの少し前までにはそこらで言われていて、いまではもうそんな言説はないと思いたいが、五月人形とはまったく違う、と改めて思う。
人間の文化、因習によるひな人形がなまぐさい、というのはだから大いに頷けて、けれど桃の木も月光もなべて「なまぐさし」という。「月光→桃の木→ひな人形」の順になまぐさい度は上がり、自然物である月光と、人間の文化的産物のひな人形を、意味を持たされた桃の木がむすんでいる。けれどこの歌においては「この世にあれば」という三句目の仮定が肝であり、習わしだろうがそのような意味づけされたものでなかろうが、なんであってもこの世にあるものはすべてなまぐさい。ひな人形はなまぐさい、ひな人形とセットにされる桃の花もなまぐさい、月光だって神秘的だとかとかくつまらぬ意味づけを免れられず、ただある、あるから光るだけの本来の尊さを奪われて、そうであればやはりなまぐさい。なべて「在る」ことの、「在る」ことによる、滲むような存在感、なにかを手放しに言祝ぐよりも「なまぐさし」とただされるほうがいっそ気持ちよく、そもそもがなまぐさいこの世にあって、桃の木は咲き、桃の節句にはやれひな人形、ちらし寿司などと祝いながら、「在る」ものすべてに月光は注いでいる。
春よ、胸のハープシコード奏づれば木木は光の衣をぬぎゆく
