水ゼリー買うたびに現世が嫌い 駅のピアノを弾いてる 誰

𠮷田恭大『フェイルセーフ』(角川書店)

一読して、東京の冬の歌だと思った。季節の情報はないけれど、どこかひえびえとした感じが一首にはある。「水ゼリー」なる飲み物があることは知っていて、けれど飲んだことも、誰かが飲んでいるのを見たこともない。というか、なんとなくの直感でしかないが、水ゼリーはもうどこにもないのではないか。少し前の東京にあった謎の飲料、というイメージがある。水ゼリーは東京の駅のホームの自販機に売られていた。地方に少なくとも水ゼリーはないと思う。冬の日の中央線や山手線の駅の自販機にそれはあって、その自販機も液晶パネルのもので、だから実物のそれがどんなものなのか、やはり知らない。

水ゼリーというワードがキャッチーなこともあり、それを知らない、飲んだことがない、という方向から詠むこともできそうだけれど、歌のなかで水ゼリーは実際たびたび買われているし、「買うたびに現世が嫌い」だという。水ゼリーを飲みたいときというのはどんなときなのか、喉を潤すというよりはどちらかというとウィダーインゼリーのような空腹凌ぎなのか、けれどもよりデザートっぽいような気もする。ただ似たようなゼリータイプの振って飲むサイダーなんかほどふざけてはいない。思えばふしぎな位置づけの飲み物だ。透明で、たぶんそれなりに甘い水ゼリーを買えば買うたび「現世が嫌い」だと思う。思いながら、また買っている。いかにも現在からは少し離れた東京の飲み物、誰がよろこぶのか、ほんとうには誰も知らないままで面白半分、あるいは惰性のうちに消費される冷たい飲み物、そう思えば水ゼリーはどこか虚無の感じもあって、「現世」、いまここ、を疎みたくなる心の向きにも共感できる。

降りた駅の、いわゆる「みんなのピアノ」で誰かが何かを弾いている。わざわざ立ち止まって聴くわけでもなく、ただ通り過ぎる場所で弾かれるピアノはいつもつねに知らない誰かが弾いているはずで、誰と思いつつ誰かはもちろんわからない。三句目と最後の一字空け、「弾いてる」の字足らず、不全感がむしろ妙なバランスをたもって、寒い駅、つめたい水ゼリー、上手いのか下手なのか、知らない誰かのピアノのメロディ、その傍、なのか聞こえるのは音だけなのか、近くを通り過ぎる歩幅のことを思って、抜け出た先のさむざむとした町を勝手に想像する。最後に一字空けで置かれる「誰」は気づけばピアノを弾く誰かを離れて、もっと漠然とした響きを持つようだ。飲み干せないまま残るゼリーの欠片のような、空に置かれたまま消え残らずずっと滲んであるような、町で誰かとすれ違いつづけながら、「誰」の一字は留め置かれている。

ロッカーに着ていた服を入れるとき出すとき触れている冬の重さ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です