嶋田さくらこ「からっぽ」(「西瓜」第19号)
この歌のすぐれたところは、「桃」という具体物の選択にある。くだものであれば何でもよいわけではない。たとえば、みかんやりんごであれば、等分することは比較的たやすい。円を均等に切り分けるように、分配のかたちが視覚的にも整う。しかし桃には大きな種がある。中心に固く居すわる核を避けながら切ると、どうしても形や大きさに微妙な差が生じる。桃を四等分に、平等に分配しようとする意識があっても、重さや形が不揃いとなる結果を避けられない(私の桃の切り方が下手なだけかもしれない)。そのわずかな不均衡を引き受ける行為が、「分け合う」という言葉の細やかな実感を歌から感じ取れるようにしている。
初句の「ひとつきり」も効いている。数の不足があらかじめ提示されることで、分配は必然的に譲り合いを含む。大きい方を選ぶ人、小さい方を選ぶ人。余裕のある共有ではなく、欠乏を前提とした共有だ。だからこそ「四人で分け合えば」という条件節は、単なる動作の説明ではなく、関係性そのものを示すように響く。
結句の「家族と呼んで差しつかえない」は、断定を避けた言い回しである。「家族である」と言い切らず、「呼んで差しつかえない」と留保することで、ここに描かれる四人は、法律上の家族かどうかは問題にされていないことが示される。ともに暮らす人びとかもしれないし、血縁ではあるが疎遠になっていた人びとかもしれない。久しぶりに顔を合わせ、ひとつの桃を囲むことで、あらためて「家族」と名づけてもよいと感じる。その微妙な確信の度合いが、この婉曲な表現に込められている。
家族とは常に仲睦まじい関係であるとは限らない。価値観の違い、軋轢、長年のわだかまり、言葉にしづらい感情の堆積──そうしたものもまた家族の内部に存在する。むしろ、簡単に肯定しきれない関係性を抱え込みながら、それでも同じ桃を分け合うというところに、家族という言葉の重みがあるのではないか。桃の不均等な切り分けは、その歪みやずれを象徴しているようにも見える。
種を中心にした桃の構造は、家族の構造にもどこか似ている。中心に共有された記憶や出来事があり、それを避けたり触れたりしながら、各人が自分の持ち分を受け取る。完全に同じかたちにはならないが、それでも「分け合う」という行為が成立する。そのとき、血縁や制度よりも先に、具体的な手触りをもった時間の共有が立ち上がる。
甘く柔らかな果肉と、固く食べることのできない種。その対比を内側に抱えた桃は、平等ではないが切実な分かち合いの象徴として、家族という関係の曖昧さと強度を同時に照らしている。肯定とも否定とも言い切らない余白を残しながら、「呼んで差しつかえない」と静かに言い添えるところに、この歌の成熟がある。
