安斎未紀「希死念慮」(Sister On a Water vol.6)
まず強く印象に残るのは、「瞼を持たざるもの」という否定形による定義のしかただ。瞼(まなぶた)とは、光を遮り、世界との接触を一時的に断つための器官である。それを「持たざるもの」と言うとき、ここには単に身体的な欠損を指す以上の含意が生まれる。みずからの力で光をうけとる感覚を止めることができない存在、すなわち外界に常に曝され続ける存在である。
続く「夏の陽」は、強烈で容赦のない光の象徴だろう。春の光でも冬の光でもなく、「夏の陽」と限定することで、痛みや灼熱、過剰さの感覚が前面に出る。その光を「かなしむ」という動詞は切実に響く。通常、強い日差しに対しては「暑がる」といった語が選ばれそうだが、歌には温度を感じる感覚はあらわれず、感情はより内面的で、しかも抽象度の高い「かなしむ」に置かれている。光に対する悲しみとは何か。それは、強さそのものへの嘆きであると同時に、逃れられない曝露状態への自覚でもある。
目を閉じて回想できるほど「夏の陽」は遠くにない。過ぎ去った季節、昔の思い出のような客観的に距離をとれるものではない。いまこの瞬間が「夏の陽」のなかで、それが永遠に続くようなかなしみが詠われている。
結句「許されざるを」は、強い倫理的な響きを持つ。単に「できない」ではなく、「許されない」と言うことで、ここに規範の影が差す。瞼を持たないものは、夏の陽を悲しむ資格すら持たない、と。悲しみは自然発生的な感情であるはずなのに、それが「許可」の問題として語られることで、この歌はごく個人の感覚から、一気に社会詠的な射程を帯びる。
瞼を持たない存在とは、たとえば無機物かもしれないし、あるいは常に強さを求められる主体の比喩かもしれない。泣くことを許されない者、弱さを示すことを禁じられた者。そのとき「夏の陽」は、外部から降り注ぐ期待や規範の光にも読める。
全体は文語調で統一され、「持たざる」「許されざる」と否定が反復される。その硬質な言い回しが、感情の発露をむしろ抑圧する方向に働き、歌の内部に緊張を生む。悲しみを語りながら、その悲しみを表明することさえ禁じる構造。光を閉じられない存在が、光を悲しむこともできないという二重の拘束が、この一首の核心である。
尾も頭も切り落とされてなほ宿る蛇の想とは無力なるもの
