高山邦男『Mother』(ながらみ書房)
たとえば自分はなぜ自分であるのか、誰かはなぜ自分でないのか、という不思議について、幼少期から思春期にかけてひと通り不思議がった後、おそらく多くの人は考えても仕方ないのだと諦め、折り合いをつける。自分は自分だし、誰かは誰かである。このように不思議がる力はこの世界自体に向くこともあり、宇宙のもとを辿ればビッグバンや生命の起源があって知ってそれなりに納得することもある。抱えきれないほどの広大さと壮大さ、とにかくその連なりの端っこに自分はいるし、ゆえにこの世もある、と。
いつしか自己も他者もこの世界も自明のものとなり、気づけばこの世にしっかりと足をつけている。むしろ、この世への漠然とした興味と引き換えに、「死んだらどうなるのか、どこへ行くのか」という死後の世界のほうが気になってくる。子どもの頃から聞きかじった知識として、おおよそ真面目に、いま生きるこの世のあとにはあの世というものがある、天国や、場合によっては地獄というものが存在する、と思うことを誰も否定はしない。私などは頑なに死んだら無の世界に戻るのみ、と思いつづけているが、と言いつつ、そう思うときその意識すらもはや無とは呼べないような、とにかくこの世という足場を疑わず、私たちはあの世についておりおり考える。生死を彷徨った人の体験なども興味深く訊き、死というものが身近に感じられるようなことがあれば、いっそうあの世に思いを馳せもする。
けれどこの歌ではより楽天的に、この世自体の不思議のうえに、あの世の存在を認めているところが肝である。この世がそもそもあることが不思議なのだから、ならばそのあとにあるとされているあの世も存在するのかもしれない、と。しかもそこは「誰もが笑顔の」場所であるという。どちらかと言うと「あの世」の響きにはネガティブな含みというかニュアンスが感じられる。が、「あの世」では誰もが笑顔、それを天国と名指すわけではないところに、むしろあの世へのフラットな感覚が伝わってくる。
母がいまわたしにくれる明るさの「素人のど自慢大会」の鐘
今、母のブームはティッシュペーパーで白くふり積むそれでいい今
ぼくの名をしばし忘れる母にしておほよそは大丈夫なこの世
『Mother』という歌集タイトルの通り、集中には母を歌ったが多くある。コロナ禍の介護という、ともすると極めて閉じた生活のなかで、それでも母と過ごす「いま」を描いた歌はあくまであかるい。掲出歌の韻律を初句からたどると、「6・7・6・7・8」となっており、二度つづく6音と7音のリズムがそのままゆっくり吸っては吐いて、はいもう一度、とふたりで合わせるやさしい深呼吸のように思えてくる。
