江戸雪『カーディガン』(青磁社)
日中ひとりで家で過ごしていると、進めるべき仕事はありながら、進捗は芳しくなく、ぼんやり窓を見つめたり、スマホで時間を溶かすばかりで気づけばあっという間に夕方になっている。「何もしなかった」と自己嫌悪に陥りながら、けれど自分だけではなくおそらく多くの人が同じような気持ちで怠惰な己を嘆いたりするのだろう、とも思う。慰め合うわけではないが、けれど同時に、他人の「今日何もしてないんだよね」という発言に対しては、ご飯を作って(作らなくても)食べて風呂に入って歯を磨いて寝た、それだけで素晴らしい、と褒めるだけの用意はある。他人を褒められるのなら、同じように自分をそうして褒めたっていいのだけれど、それはなかなかうまくいかない。
ただ、この歌はあくまで「いちにちは何も起こらず」である。自らの行動や働きかけというよりも、世界の側に「何も起こらず」、そしてそのまま「夕暮れ」る。ほんとうには、目を凝らせば、いや凝らすまでもなく、世界情勢は目まぐるしく変わりながら、つねにどこかで何かは起きているはずだし、じっさい起きている。事故があり事件があり戦争があり、人が死に、殺されつづけている。より卑近なことをとっても、町では誰かが転び、桜はいよいよ満開、ある商店は閉店を迎え、いまちょうど家の前の小学校のチャイムが鳴った(どうやら今日は入学式だったようだ)。遠く近く、どこをとっても何も起きていないはずがないのに、けれど、同時に同じだけ強く、「いちにちは何も起こらず夕暮れて」という上の句のことが、とてもよくわかる。
ほとんど外界と接触することなく過ごした一日がある。なんとなく手持ち無沙汰なままに日は暮れて、「地に落ちてているカーディガンあり」。「地」とあるが、じっさいには、静かに過ごした部屋の隅に、日がな落ちていたそれはカーディガンなのかもしれない。床ではなく、それが「地」と描かれることにこそ妙がある。「何も起こらず夕暮れ」た世界の、この私の部屋という「地」にそれはいま落ちている。掲出歌は歌集の末尾に置かれ、タイトルの「カーディガン」を象徴する一首にもなっている。必ず忘れるような何でもない一日を、そこにありつづけた一枚のカーディガン。その床は地であり、世界というこの場所に、いっときたしかに存在していた。「カーディガンあり」と結句でその存在を示すことで、そのやわらかであまりに頼りないいちまいのカーディガンという存在自体が反転するように、むしろ異様なほどの存在感を放ってそこにあるように思えてくる。
ながいきは日向の沼のようであり微笑んで微笑んで眠れり
