柳原恵津子『水張田の季節』(左右社)
天啓、といってもいいような言葉があるとして、これはそのうちのひとつであると思う。大仰ではなく、「猫を飼おう」はそのくらいインパクトがある。あるいは「犬を飼おう」でも同じような響きをもつかもしれない。「猫を飼おうだなんてそんな唐突に」と上の句は一息に、相手のその突然の提案への驚きをそのまま表している。そして驚きながらも、同時にすでにその提案を受け入れてもいるようにも思えてくる。「猫を飼おう」という言葉とともに、そこにはあたたかくやわらかな陽がさしている。「教室のようなやわき陽」とは、家の窓よりもずっと大きなあの教室の窓一面から、長いクリーム色のカーテンを揺らして降りそそぐあのあたたかな陽のことである。まさに天啓、と思うようなひらめき、思いつき、じっさいに同連作のなかには〈猫が眠る夫が書を読む遅れがちなわれの時計を励ましながら〉という歌があり、猫はその家へと迎え入れられたのだろうということがわかる。
じっさいに猫が家にやってきた日を境に生活は一変する。猫、かわいい。言ってしまえばそれに尽きるのだと思うけれど、そのかわいさに翻弄されながら、ちゃんとトイレを覚えることができるか、毎晩どこで眠るのか、あるいは壁やソファなど思わぬところで爪を研いだり、ものすごい音がすると思えば毛玉を吐いたり、猫という新たな存在によって、それまでの生活は一変する。そのようにして、何かの出来事を起点とすればすべてはその「以前/以後」である。その前と後との劇的な変化のことそれ自体を、いつも不思議に思う。たとえば掲出歌と似た例で、実家にいた大学生の頃、猫を飼うことになって里親のもとからキジトラの一匹がやってきたこと。あるいは、より鮮明に記憶するのは小学三年生の誕生日にうちへやってきたジャンガリアンハムスター。昨日までなかった新しいケージ、大鋸屑の香り、たくさんのひまわりの種。ホームセンターに行って買いそろえた新しいグッズ、そして小屋にはじっさいあんなに熱望したハムスターが存在している。すべてそれまでになかったものがいまここにある、その不思議に打たれるようで、昨日までいなかったハムスターが目の前で鼻をすんすんやっている。その代えがたい実感のことをいまもよく思い出す。
子どもが生まれた後とその前とでも、たとえば生活はまったく変わるけれど、それはどうにも事が大きすぎてそうでなかった生活そのものがあまりに遠く朧げに思える。むしろ、ちょっとした小物や家具や家電だったり、生活のなかで新しいものがやってくると、けっこうそれだけで真面目に驚ける。もちろん、生活に馴染んでいくうちに当たり前になっていくのだけれど、なんであっても「無から有」の変化はどうしても不思議だ。それが猫であるなんて、いいなあ。猫がじっさいに家にやってくるなんて夢のようで、けれど「猫を飼おう」という天啓のような提案がなされた時点で、それを自分の耳で聞いた時点で、もう十分に満たされるような気すらする。そこにはすでに、春の日のあたたかな陽があふれんばかりに降り注いでいる。
もらいたる君のクロックスに両足をいれればアトムのごとくぽってり
