大辻󠄀隆弘『樟の窓』
野球中継を見ていて、ふとカメラがスタンドの方を映すと、誰も人がいないエリアがあって、ずらりと並んだ樹脂製の椅子のヴィヴィットな青さが目に入ってきた。人が座っているときには見えない青色があらわになっている。椅子が青いことそれ自体はなんの不思議もない元よりただそこにある椅子で、わざわざ気に留めることもない。カメラによって切り取られた画面という限られた平面上を青色が満たしたときに、初めて椅子の青さが認識される。「あをく連なる」は風景の描写であるとともに「思いがけなく意識を向けさせられた」という作者の驚きが自動詞の選択から感じ取れる。
「観客のなきスタンドは」の「は」の用い方は文法的にはあやうい。修飾のための言葉を除いて歌をシンプルにするとよくわかるだろう。
観客のなきスタンドは椅子が連なる
何か足りない感じがする。
観客のなきスタンドには椅子が連なっている
場所を示す「に」と、状態を示す「ている」をつけないと、文章として不十分に見える。ただこうすると「観客のなきスタンド」は主題化されず椅子の説明のための文章に見える。
観客のなきスタンドは深々と塗られし椅子があをく連なる(原作)
「観客のなきスタンド」を青色が満たしている。主体が魅せられたなんともいいがたい印象である。テクストを表面的に読むと、場面の説明のような雰囲気に見えるが、この歌の本質的な部分は青色が満たしているスタンドの”感じ”にあるのだ。客観的な描写と主体の感覚の微妙な差が詠まれている。風景を詠んだ写生の歌が成功するかどうかは、この微妙な差を歌に出せるかどうかにかかっている。風景に見えるものをただ点々と言葉に置き換えていっても良い歌にはならない。自分の意識を通して得られたぼんやりと言い難い空気感や違和感を、じんわりと読者に伝える必要がある。
もとよりそこにあるものへ意識を向ける、意識を向けさせられる。その結果起こった主体の反応が、現実とのわずかなズレを起こす。このずれに意識的に気付けるかどうかか歌人のセンスだといっても良いと思う。きっかけは受動的かもしれないが、歌の形に収めようとする行為は内発的な動機によるものに変化する。ここには玉城徹のいう「短歌のしをり」——詠嘆の語を排しても残る自動詞性——がこの歌にはふんだんに見える。
文章と短歌の大きな差は助詞が許容できる負荷の大きさにあると思う。短歌の方が、負荷に耐える力が大きい。客観的な説明をしたければどうしても文章には敵わない。短歌が得意とするのは、主観的な感覚を映し取ることで、それは読者側もまた助詞を深く読むものだと、作者との黙約・信頼関係のもとに、語が選択されるからだ。
塗られし椅子
あと一つ触れたいところがあって、「し」のニュアンスを口語で再現するのは難しい、という話だ。過去の助動詞「き」の連体形「し」は、口語にするなら「た」だが、「た」では余計な成分が入ってしまう。実際に置いてみると、
観客のなきスタンドは深々と塗られた椅子があをく連なる(改作)
「塗られた椅子」だと、意図的に塗られた感・ついさっき塗られた感が出てくる。出てくるというか、読みの可能性が広いので、ニュアンスを読者が選択しなければならない。おまけに受け身の「られ」が加わってくるとさらに余計なニュアンスが増える。塗る行為そのものが強く出過ぎるのだ。すでに塗ってあって今そこにある、といった自然さを伝えるのに「られた」は強すぎる。
もちろん、音数を増やせば意味的に同じ内容に近づけることはできる。例えば「ている」を置いて、自然にそこにあったニュアンスを出せる。
観客のなきスタンドは深々と塗られている椅子があをく連なる(改作)
しかしこうすると「観客のなきスタンド」の主題感がどんどん薄まっていく。文語の過去「き」の特性は、歴史のある一時点において対象がそのようにあったという「ピュアな過去」を示せるところにある。歌の中でいくつかのモチーフを重ねようとすると、余計な意味をつけない文語の助動詞はとても使い勝手が良い。「た」にはさまざまなニュアンスが混ざりすぎているのだ。
口語で写生の歌を試みるには「た」の多義性との戦いを避けられない。そうするとやはり現在形の終止形(ウ形)を駆使することになるのだけど、これはこれで特殊な用法になるので次回触れたいと思う。
以下余談なんですが、大辻さんの「辻󠄀」は一点しんにょう「⻌」で、環境によってはうまく表示されない場合がある。文字入力の変換候補に出てこないこともざらである。辞書登録をしておけばいいのだけど、出先でどうしても「辻󠄀」を出したい時は「鬼滅の刃」の鬼舞辻󠄀無惨から取ってくると良い。第一話「第一話 鬼舞辻󠄀無惨を倒すために」にそのまま「辻󠄀」が入っている。いざという時にお使いください。
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