桜なら萼が好きだよもうきっと会わないだろう赤いまなじり

 笠木拓『はるかカーテンコールまで』港の人

先週末、隣の市に出かけた際に立ち寄った公園の桜がかなり咲いていて、五分、いや七分咲き、これならば次の週末には満開をこえて散り始めてもおかしくはない。毎年、桜の見ごろは決まって四月に入ってはじめの週末と確信しており、ちょうど今週末に花見をするつもりだった。ぬかった、と思いながらみんなちゃんと桜の見ごろはかりつつ人を誘ってこうして花見をするなんてすごい。そんなふうに他人の周到さに驚きつつ、翌日いそいそと近所の公園に向かうとまったく咲いていない。同じ県内と言えど、場所によってここまで違うものなのか。枝の先にわずかに咲き始めた桜を見ながら、勇んで買ってきた弁当とビールをあける。

やっぱり満開がいちばんきれいで、満開の桜を逃したくない、と思っている。だから「桜なら萼が好きだよ」と言われたら驚いて、たぶん聞き返す。萼って、あの桜が全部散ったあとに残る、あの赤いふちの部分、あれが好きなの。あれでいいの。桜は散ればすぐに葉が顔を出し、葉桜はどうしても、あのいきいきと新しい緑色と、残った萼の赤茶色のコントラストがちぐはぐで、あんなによろこんだはずの桜の下を見向きもせずに通り過ぎてしまう。なんというか、そういう自分の大衆性というのか、みんなが好きなものが好き、その屈託のなさに若干あきれつつ、でも萼はなあ。「桜なら萼が好きだよ」というその人は、桜の開花にもこんなふうにいちいちおろおろしないのだろう。とっくに満開を過ぎて花は散り、誰もいなくなった葉桜の頃に木を見上げている。萼の赤さから連想された「赤いまなじり」というのは、「もうきっと会わないだろう」という確信があるからなのか、その人自体、表情やもっと引きでとらえたときの感じ、よりもむしろクローズアップされた目というパーツの赤さ、そこにピンとが合っている。泣いたから赤いのか、赤いシャドウなのか。大切な関係にあった相手、というよりは一回きりの、すれ違った知らない誰かのそれはまなじりかもしれず、もう会わない、ということに後ろめたさも引きずる思いも感じられない。萼がみな落ちれば、じきに暑さにたじろぐような新緑の季節がやってくる。

さくらばなそのはなごとのためらいの地上にはまだはるかにとおい

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