椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』2024年
そもそもカステラはまぶしい。「ところ」と言わずとも全体がまぶしいといえる。棒のように大きなカステラの本体から切り分けた一切れの角の部分がとりわけ「まぶしいところ」だと思う。立体の角をちぎると三角錐ができあがる。カステラのてっぺんにある焦げ目の層の直線が際立って見える。フォークでカステラを食べるときはちぎるとは言わないので手で摘んで食べている気がした。手でつかんだらそのまま口に持っていきそうだけどそうはせずに指でカステラをつまんでいる。
一切れの小さなカステラが放つまぶしさは、主体の「好きでいる」現在の状態の暗喩だろう。「まだ好きでいる」の「まだ」は「まだ食べ終わっていない」と同じような時間の認識だ。五分ほどですぐに食べ終わってしまう、まぶしさがどんどん小さくなって最後には消えてしまう、少し先の未来に起こることがはっきりと予感されている。いつか消えてしまうまぶしさのピークが現在にあって、そのまぶしさが決定的に減り始める、終わりの始まりのひと口目が「ちぎって食べる」だと思う。
好きでいる|まだ好きでいる|カステラの/まぶしいところを/ちぎって食べる|
5 7 5 8 7
初句二句で細かく句切れを置きながら同じフレーズを繰り返すのはかなり強力な調べである。深く息を吐きながらゆっくりと歌うような感じがする。三句以降は冷静でなだらか、その分平板な調べであるが、それゆえに初句二句のインパクトは減衰せずに歌の最後まで余韻が残っている。四句の字余りが、カステラのまぶしさを強調し、「好きでいる」状態とお互いに喩でつながり、参照し合うようになる。
そもそもカステラは光っていない。光を当てているのは〈私〉だ。
〈私〉がカステラに強烈な光を当てていて、光の反射を「まぶしい」と感じている。決定的な破滅がありながら「好きでいる」アンビバレントな心の状態が歌われている。何が「好き」だったのか、直接は書かれていない。歌から欠落した言葉の宛先、ゼロの部分には何を入れてもいい。人間でもいいし、趣味や仕事でもいいと思う。ずっと好きでいたかった何かが、光を放っていた(と主観的に感じている)何かが、その輝きを永遠に失ってしまう確かな予感があり、光を失う未来を受け入れて自身の選択として選ぼうとする主体の心の強さが、調べの強さに転化されているのだ。
むかしむかし案山子を見たら会釈して数時間スキップしなかった
今が旬のセロリぐらいのスピードで走れると思った春の風
