過ぎ去って行くのは私のほうなのに過ぎ去っていく草の原、牛

相原かろ『浜竹』(青磁社)

たしかに、と思ってはっとする。はっとしながら同時に、少し恥ずかしい気持ちにもなっている。この歌によって、つねに自分中心にすべてを見てしまっていることに気づかされるからかもしれない。何か乗り物に乗って、車窓から流れる風景を眺める。流れるものが「草の原、牛」であることから、通勤電車ではなく、より非日常の車窓、特急や新幹線などの窓から少し高揚した気分のなかで、物珍しさも相まって風景を楽しむ自分がいる。街中から次第に緑が増え、(わ、草原だ)(や、牛だ)などと思いながら、車窓から草原や牛は一瞬で「過ぎ去って行く」。どんどん流れてゆく景色にもそのうち飽きて、飽きればスマホや本、あるいは弁当だとか手元へと意識は戻る。その間にもどんどん車窓は移り変わってゆく。

先ほど一瞬で通り過ぎた草原やそこにいた牛たちは、いまもおそらくそこにある。牛などはのんびりと草を食んでいる。この「のんびりと」にもちろんこちらの主観があり、私たちの目線で捉えられた一瞬間の牛は過ぎ去ってしまえばそのまま忘れられてゆく。だが、牛からすれば過ぎ去って行くのは人間のほうである。人間、というよりも人間たちを乗せた高速の乗り物が何分おきかに通りすぎてゆく。それをしてこちらは「流れる景色」などと悦に入り、そこまでではないとしても、一瞬間に過ぎ去る町並み、緑、草を喰む牛、あっと思ってはすぐに忘れていく。こちらに発見されようがそののちすぐに忘れられようが、そこにあるものはつねにあり、牛はかまわず草原にいる。

過ぎ去るものに勝手に思いを馳せるのはいつもこちらである。自分である。馳せられたほうの牛も街ももちろん何も思いはしない。あ、草原、そして牛、と思うときにおさめる風景を写真のように捉えて、大掴みに車窓を見ている。確認できないままに、ほんとうにはそこにいるはずの、いま草を食む牛の口元は濡れ、よだれが滴っている。尻からは糞が垂れる。臭いがある、生き死にがある。もちろん過ぎ去るのみでそれを知らずにいる。

運び去るバスのみいつも見ていたがみのり幼稚園ここにあるのか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です