六十歳の朝にも前髪切り過ぎることがあるのか鏡の中に

竹中優子『現代短歌No.112』(現代短歌社)

あるんだろうなと思う。思いながら、この歌の主体と同じようにそのことを同じだけ疑ってもいる。疑うというより、「六十歳の朝」に「前髪切り過ぎる」という具体的な場面にまで、いまの自分からは想像が及ばない。似た感覚として、〈四十になっても抱くかと問われつつお好み焼きにタレを塗る刷毛〉(吉川宏志)という歌もある。たしかに、若いふたりに四十歳はあまりに遠い。けれど、四十には四十のふたりが存在し、なってみればなんてことはないのだろうといっぽうでは思う。

だからきっと、六十歳の朝に前髪を切り過ぎることも現実として、遠からずその日は確実に来るのだろう。前日に美容室で切った髪を翌朝あらためて眺めれば切り過ぎたなぁと思う場面、ともとれるが私は自宅の鏡の前でみずから鋏を入れる場面として読んだ。

朝起きて身支度をしながらふと前髪が目にかかって鬱陶しい、と思って鋏を持って切り始める。なんであれ、習慣としてつづけていれば長じるにつれ上達しそうなものだが、案外そうでもない。ほんの少し、のつもりがまた(切り過ぎた)と静かに思う。あちゃー、というようなリアクションもおそらくはなく、ただ真顔のまま、鏡のなかで切り過ぎた前髪を引っ張ったりしている。

この連作「十三本」については『短歌研究2026 3+4』作品季評のなかでも取り上げられており、左沢森が「小説家としてのデビュー作である『ダンス』(新潮新人賞、新潮社)でも、三十代、四十代という「十単位」の数字の使い方が印象的だったのですが、今回の連作も最後で「六十歳」とおっしゃっている。五十代をすっ飛ばして大摑みに表現しているところにも魅力があります」と言及している。たしかに『ダンス』のラストシーンでは「それで、どうだった。あなたの三十代は?」という印象的なセリフがある。途切れなく日々はつづきながら、じりじりとひとつずつ歳を重ねて、その先に「六十歳の朝」は訪れるだろう。その感慨のなさ、というより思いの及ばなさをぼんやり携えながら、だからこそ、輪切りのようなかたちで掴んでみる自分のこれまでとこれから、つぶさに丁重に扱って愛でるのではなく、ぶつ切りにして見せるようなその片手の大きさ、骨っぽさ。わっと広げて一掴みにする握力の加減こそが、ジャンルを超えた竹中作品の魅力であることに思い至る。

洗濯物になって会いにくればいい 父が着ていたゾウのTシャツ

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