南極に宇宙に渋谷駅前にわたしはきみをひとりにしない

岡本真帆『水上バス浅草行き』2022年

この歌の「きみ」は犬である、と読むこともできる。南極のタロとジロ、人工衛星に乗って宇宙へ送られたライカ、そして渋谷駅前のハチ公。こうした連想は自然に浮かぶだろう。しかしクイズ問題のような、単なる知識をなぞるような読みは、あくまで一義的なものとしておきたい。「きみ」を特定の存在に回収せず、より捉えどころのない他者として読んでみたい。

上の句に並べられた「南極」「宇宙」「渋谷駅前」は、いずれも性質の異なる場所でありながら、「孤独」という一点でゆるやかにつながっている。南極や宇宙のような生存の困難な場所と、人のあふれる都市の中心が並置されることで、「ひとりであること」はその場所が持っている実際の環境の問題ではなく、人間の心の状態として浮かび上がる。

「南極に宇宙に渋谷駅前に」と助詞「に」が反復されることで、空間が際限なく広がっている感じがする。その広がりに対して、結句の「わたしはきみをひとりにしない」は強い収束をもたらす。どこにいても、という条件の拡張が、そのまま宣言の強度を支えている。ただしこの宣言は、単なる未来への約束ではないだろう。「ひとりにしない」と言うとき、その言葉の背後には、すでに「ひとりにしてしまった」経験が影を落としている。そうでなければ、ここまで強く言い切る必要はない。南極や宇宙や渋谷駅前に「きみ」がいるという想像そのものが、すでに取り返しのつかない隔たりを含んでいる。

(もう二度と)南極に宇宙に渋谷駅前にわたしはきみをひとりにしない

と言葉を補っても良いかもしれない。ここで、先に触れた犬たちのイメージが、比喩としてあらわれてくる。自らの意思ではなく、人間の手によって極地や宇宙に送り込まれ、あるいは駅前に置き去りにされ、美談に仕立て上げられた存在たち。気づいたときには、もうそばにいなかった者たちである。作者は、人間の歴史をまるっと自分ごとにしている。自分の過去の出来事を人間というスケールの大きさに広げる。

だからこそ、「わたしはきみをひとりにしない」という言葉は、これからそうするという宣言であると同時に、過去に対する悔恨の気持ちとなる。どこにいても駆け寄りたい、という願いは、すでに届かなかった過去の時間を含みこんでいる。

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