岩倉曰『harako』2022年
冬の水の冷たさを思った。
辞典のように、短い題と短歌が整然と並んでいく不思議な歌集である。この歌は、ひとつひとつの歌はきわめて平易な言葉で書かれていて、難しい言葉や目立ったレトリックがないように見える。すっと読めてしまうのだ。しかし読み終えたあとに、妙な余韻が残る。ぶどう味の蒟蒻ゼリーを噛まずに飲み込んでしまったような感じだ。言葉が透明なぶんだけ、その奥にある感触があとから浮かび上がってくるような気がする。
名詞を見ると、「スポンジ」「しぼる」「水」といった生活の中の言葉ばかりだ。そして、四句の冒頭にある「水」以降、名詞がほとんど現れない。「透明な水がでてくるようになるまで」と、動きや状態を表す語で音数がゆったりと満たされていく。そのため、読者の意識は物の名前よりも、繰り返しの動作をする主体の意識に向かう。「何度もしぼる」は時制が曖昧で、これから絞るのか、絞ったことを回想しているのかはっきりとわからない。時間の感覚が薄いせいか「何度もしぼる」動作のループに永遠に閉じ込められているような苦しさがある。どれだけ絞っても「透明な水」にならないかもしれない予感、あきらめの気持ちが読み取れるだろうか。
韻律の面で見ると、この歌の要所は二つある。まず、「スポンジを何度もしぼる」で強い二句切れにしているところだ。ここでいったん歌の流れが止まり、動作が鋭く切り取られる。何度も、何度も絞るという反復の手触りが、短い言葉の中でぎゅっと圧縮される。そのあとに続く「透明な水がでてくるようになるまで」は三句字余りで、ぬらぬらと言葉が続いていく。意味としては単純な説明のはずなのに、声に出して読むと、つぶやくように長く息を使う。
そのため、この歌はどこか息苦しい。スポンジの奥に残った濁りを押し出すように、何度も何度も絞る。やがて水は透明になるが、その透明さに至るまでの時間は決して短くない。平易な言葉で書かれているにもかかわらず、読後に残るのは、水の澄み具合ではなく、澄んでいくまでの過程が主体を苦しくする、主体を取り巻く見えない構造の存在が重圧に感じられるのではないか。
