小原奈実『声影記』(港の人)
『声影記』に花の歌は多くありながら、桜の歌はおそらく掲出歌と〈さくら満てり天にひそめる嘴はするどく硬く蜜突きに来む〉の二首のみである。このとき眼前に桜は咲いているのだろうか。まだ春を迎える前、冬の枯れ木の枝しかないような寒々とした状態、というよりもじっさいに咲き誇っていながらも、どうしてか、自分の目にはピントが合わず映りこんではこない、そこにあっても、差し迫って見えてはいない、そういう感じだろうか。じっさい、咲けば桜の存在感というのは圧倒的で、毎年見てもうさすがに見慣れているはずなのに、それでも一年越しにふと満開の桜を目にすれば新しい気持ちで素直におお、と思う。それでよろこんで桜の木のもとで花見など始めてしまう。雪と同じように、咲けば街の雰囲気、風景自体が様がわりする。文字通りはなやいで、あかるく、人々の気分を高揚させる。
けれど、どうしてかそのおそらくは満開に咲き誇る桜が主体には見えてはいない。あんなにうつくしく、目立って、街や彩って人をよろこばせているのに、いやむしろ、そうだから、なのだろうか。そして、「ちりゆけば息つまるまでけはひみつるを」という。私たちはひとたび桜が散れば見向きもしない。けれど散ってしまえばこそ、散ったあとにこそさくらの気配は満ちている、という。そうであれば散った花びらはしばらくの間そこにとどまって桜並木であれば花筏のように、一面うす桃色になる、あの情景もたしかにとてもうつくしい。それを指しているのかどうか、けれど一首はもっとどこか潜在的な、こちらの意識としてみえているさくら、心にみちているそのさくらの気配を捉えようとしているように思われる。
初句、二句の「み」の頭韻、ちりゆけば、と上の句でいったん止まり、そのまま息を止めて、時が一瞬止まるようでもある。けはひみつるを、の言いさし、息以外がすべてひらがな表記であること、そうしてひらかれた「けはひみつるを」、そこには「ひみつ」がひっそりとある、たしかに存在している。まだいまは咲きかけの、桜に近づいてよく見ればつぼみは色づきながら膨らんで、それぞれがおしなべて空を向きながらわずかの風に震えている。ふるえながら咲き始めている全部が全部、どんな細い枝も空を向いて、枝とは空に向かって伸びるものの総体とさえ思う。けはひみつるを、まだ満開ですらない桜の、けだし浮き上がるようにそこにあるささやかで芯のある、ひみつのことを思う。
春よいつしかのどよりあふれ植物の断片を身のかぎり詰めてゐき
