向井俊「ここにはいない」(ねむらない樹vol.6)
階段をあと一段降りたら、もとの世界に戻ってこれない気がする。
もし実際に「階段を少し降りたら水田」であったら、階段を降りる前に水田は見えているはずだ。ところが歌は、「階段を少し降りたら(思いがけなく)水田」があったというような内容になっている。主体は突如として現れた水田に驚くことなく、階段を「もっと降り」てだだっ広い「みずうみ」へとたどり着く。主体が階段を降りる行為には、何らかの探索意識がある。水田や湖といった具体的なゴールを目指しているわけではなく、もっと漠然とした、思いがけない場所を探しているのだ。だから主体の思い通りに「思いがけない場所」にたどり着いても主体はおどろかない。結句の「でした」の「た」には発見の意味があるが、意図しない発見(ミラティヴ)の要素は感じ取れない。階段を戻った先の現実世界とはことなる世界があることに対して、確信があるのだ。
水田が突然現れるのは不思議な現象だけれど、水田はまだ人間が関わっているものだから、現実と幻想の境目という感じがする。「みずうみ」は風景が言葉に抽象化されている。水そのものが無限に広がる光景は「みずうみ」としか言いようがない。波があれば海かもしれない。流れが見えれば河かもしれない。自分を中心にどこまで凪が広がる光景は、やはり「みずうみ」だ。3段ほどの白い階段が水面の上にぽつんとあって、水面の次の段に足をかけている。階段をおりる足取りは一段ごとにゆっくりと、ブラックホールの事象の地平線に近づくように時間が伸びていく。
向井さんの歌は、第三回笹井宏之賞個人賞(千葉雅也賞)の受賞作から引いた。作者名は誌面に掲載された作者名とは異なっている。2021年に書肆侃侃房の藤枝大さんから「向井さんは筆名を変えて活動する」と聞いた。本人の意向を汲んで、新しい名前でここに記載している。過去の作品と自分を切り離したいかもしれないけれど元の名前から1文字変わるだけなのでそこまでの強い意図はないと思っている。
受賞の言葉に、去年の夏に笹井宏之の歌を読んで短歌を作るようになった、と書いてあって自分の作品のルーツをまったく隠さない無防備さというか、笹井宏之を読んで笹井宏之賞に応募する純粋さに驚いた。笹井の文体の影響を指摘するのは簡単だろう。「みずうみでした」の丁寧語の使い方、水田や菜の花畑といった名詞の語彙、こういった表面的でわかりやすい要素は向井さんの作品がどう変わっていくのか、変わっていかないのか、気になっているのだけど、動向がわからない。当時「ねむらない樹」は年に2回発行だった。笹井賞の個人賞受賞者は半年後に刊行される最新号に受賞後第一作として連作20首が掲載される。2021年のvol.7を最後に向井さんの作品を見る機会は無くなってしまった。個人で活動されているかもしれないが、ネット上からは見つけられなかった。
善人はみんな受話器になったのか ここにはわたししかいないのか
白地図は持っているけどこんなにも菜の花畑でどうすればいい
クーラーのきいた小部屋で戦争のドキュメンタリーを何本か見る
真夜中の冷蔵庫から飛び出したらくだの首をやわらかく抱く
今読み返してみると、笹井宏之からの影響だけでは語れない向井さんの特徴があるように思う。圧倒的な孤独感だ。
