好きだったスープは今も好きなんだ社会に出ても平気でごめん

榊󠄀原紘『悪友』(書肆侃侃房)

子どもが通う保育園には年に一度総会があり、そこで販売部だとか広報部など各部からの報告の時間が当てられている。毎年思うのだが、事前に配られた資料を読めばそれで済むことを、なぜその場ですべて読み上げないといけないのだろう。など、ぶつくさ文句を垂れていたら「会議ってそういうもんだよ」と夫に言われた。会議ってそういうもんなのか。思えば会議というものに出たことがない、通す稟議とかもない。組織というものを極度に恐れて拒んできたけれど、社会に出た人たちはああいう会議にも日々黙って参加しているのか。(そして、だからみんな疲れているのだろうか?)

下の句「社会に出ても平気でごめん」は、だから私にとってはただ、頼もしい。社会や組織というものに極度に怯えつづける身としては、平気でいるほうがずっとかっこいい。ごめん、だなんて謝らないでほしい。なんとなく、これまで自分のまわりには似たように社会に怯える人が多いと思っていたけれど、ちゃんと平気な人もいるのだ。だからこうして社会は回っている。「好きだったスープは今も好きなんだ」というのはたとえば学生時代から好んでいたスープ、それはどんなスープだろうと想像する。スープストックのスープ、カラオケのドリンクバーのコーンスープ、あるいはコンビニに売っているさまざまな種類のカップスープ。そうして以前から変わらず好きなスープがありながら、社会という大きな環境の変化を経て、変わったことも多くあるかもしれない。

誰に話しかけているのか、友人に対して半分ふざけてちょっと煽るようでもあり、けれど、万にひとつ、「平気でごめん」と言いながら、強がっていたらどうしよう、と友人目線で思ったりもする。平気でごめん、と言っているから平気なんだろう、とほとんどは言葉通り、そのままを受け止める。けれど、そのように少しの煽りを含む表現に、ほんのわずかに「平気でなさ」はおそらく含まれている。平気なふり、というようなポーズでは決してないけれど、平気じゃないことがあったっておかしくはない。理不尽な要求とか無意味な会議とかやばい上司とか、そんなことは避けようもなくどこにもある。「平気でごめん」と言いながら、くたびれてふと手を伸ばすかもしれないコンビニの、たくさんのカップスープのことを思い出す。ずらっと並ぶたくさんの味から、好きだったそれを選んでレジへ向かう。手に取るカップスープはいつも、空っぽかと思うほどあまりに軽くて不安になる。

前髪の分け目を戻す はじまりがわかったことなど一度もないよ

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