古泉千樫『川のほとり』1925年
神社のお祭りが延期になったようだ。街を歩いていると、祭りのために準備しておいた飾りを外している人の姿があちこちに見える。おそらくは、提灯を吊したり、幟を立てていたり、百年の前の祭りの様子がどんなものであったか短歌からはわからないが、惜しい気持ちをつぶやきながら片付けをしている人の姿が目に入ったのだろう。「まつり延びけらし」は「祭りが延びたのだなぁ」という感じで、あまり祭りに思い入れがある感じがしない。千樫は街の動きを少し遠くから見ている感じがする。街の人の声が聞こえない程度のところで、道の端というよりは道のまんなかあたりをぶらぶらと歩いている。
「街のかざりを取りゐる真昼」は至高の下の句といって良いと思う。ただ、仕組みを説明するのは難しい。「深川の八幡のまつり延びけらし」まで読んだ時に、ここから秀歌になる可能性はかなり低いと直感的に感じてしまうのだけど、次の「街のかざり」で様子が一気に変わって秀歌への道筋がぱーっと見えてくる予想の裏切りかたが私を魅了している。
歌には、飾りを外す人の描写は省略されている。どんな飾りかもわからない。それなのに、なぜだか心地よく感じる。千樫も短歌の読者と同じく、飾りがどんな意味を持っているのかわからない、あるいは詳しく知ろうとしていない。ぼんやりとしながら、仕事のことや歌のこと、祭り以外のことを考えながら昼の街にいる。そうでなければ「街のかざりを取りゐる」には至れない。
「深川」「八幡のまつり」の固有名詞が歌のはんぶんほどを埋め尽くしているから、残りの音数は限られて、そこにざっくりとした〈街にいる感じ〉がふっと収められる。もっと祭りに興味があったら、「深川の八幡のまつり延びけらし」のあとに「街のかざりを取りゐる真昼」は出てこない。また、「はちまんのまつり」の8音字余りのだらりとした調べのおかげで、下の句の印象は上の句よりも薄くなる。言葉が消えてしまうぎりぎりのところで掬い上げられたフレーズが下の句なんだと思う。上の句は、次々と目に入ってくる断片的な情報の中で、たまたま目に止まったのが祭りの名前だったとでもいうような、そんな気がする。見たものをあまり加工せずにそのまま言おうとするから、字余りでもとりあえずそのまま次の句に進む。
祭りが延期された街の様子を捉える。そもそもこの視点は新しい。「街の飾り」となっている物体を見て「これは街の飾りだ」と認識するのは相当に難しい。それゆえ、歌が詠まれてから百年経った今読んでも新鮮に感じられる。トリビアルな風景描写に落ち込まず、そこにいる人間の気持ちにも触れず、ただ昼の街の様子を抽象的に捉えている。結句「真昼」に至るまでの、どこかに心寄せしそうでしない展開が最高なのだ。
飾りをしまうために忙しなく動く人に流れる時間と、千樫に流れる時間はずれていて、千樫からすれば今見ているすべてが、とある「真昼」のできごとなのだろう。街の人々からすれば、祭りの前日に道を歩いている千樫の方がモブキャラで、千樫自身も自分がストレンジャーである意識を持って、距離感を保っている。こうした現代人にも通じるような意識を読み取れてしまうのは、やはり歌の内容の省略が効いているからだろう。
みんなみの嶺岡山(みねおかやま)の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも
男ゐてぐつとたわむる枇杷の枝光りかがやくそのひと枝を
ひとり親しく焚き火して居り火のなかに松毬(まつかさ)が見ゆ燃ゆる松かさ
炎や光を詠んでいても、茂吉ほどの対象への心寄せの強さを感じない。「こよひも赤く見えにけるかも」の詠嘆にも「こよひも」という命の一回生と反対にいくような感覚があって、そこに千樫ならではの歌風が感じ取れる。「松毬(まつかさ)が見ゆ」の「見ゆ」もそうだ、すでにそこにあるものを、文字通り「すでにそこにあるもの」として捉える。こういった対象との距離の保ちかたに惹かれるものがある。
※ちなみに『川のほとり』は岩波文庫の『古泉千樫歌集』に全編収録されています。140ページほどの薄い文庫本で持ち運びに良くおすすめです。
