𠮷田恭大『フェイルセーフ』2025年12月24日
四句「夜 隣人の」を句割れで読んだ。その直前の句からの文章の続きが、句割れの句に入ってからも続くので、感覚的には文章の途中でいきなり句切れが入って止まる感じと、止まってすぐにエンジンを入れ直して定型のリズムに間に合わせるような、一瞬の時間のずれがある。この一瞬の停止を心地よく感じる句割れは良い句割れだと思う。
「夜 隣人の」の一字空けはおもしろい。助詞を補って「夜に」「夜は」とすれば文章は繋がるが「夜」で一度止めている。一字空けをしない場合は助詞の省略に見えただろう。
改作①:助詞あり・字余り
居る、または居ない、で言えば居る寄りの夜は隣人の水の音する
改作②:一字空けなし
居る、または居ない、で言えば居る寄りの夜隣人の水の音する
原作はテクストの見た目には一字空いているけれど定型のリズムに乗せて読むときのこの空白はほとんど時間的な間を空けずにそのまま「よるりんじんの」と読める。「いるよりの」「よるりんじんの」の韻律はかなり心地が良い。「る・よ・り」の三音中心のリフレインは素朴でどこか牧歌的な懐かしい雰囲気がある。結句の「水の音する」の最後の「る」に至った時の終結感は感動的である。
使う音を絞って歌を作っていくと、意味よりも韻律が前景化してくる感じがする。限られた音階でメロディーを作るとある風味が出てくるように歌のリズムと音の質感が立体的に立ち上がる。
「居る、または居ない、で言えば居る寄りの夜」は水の音から隣人の存在感を察したということだろうか。洗濯機のゴオオオという音であれば間違いなく「居る」ので、何のための音かわからないちょっとした水の流れの音を聞き取ったのだと思う。それは共用部の排水溝の音かもしれない。昨晩の雨がいくらか残っていて、少しずつ溜まった滴が建物の内部を過ぎていった、隣人の部屋の方角から聞こえてきた音かもしれない。
部屋にいながら、自分以外の世界の動きを感じ取る。それがたまたま隣の部屋の方から聞こえてきただけであって、窓の外を風が流れる音がしても、この主体は鋭敏にその動きを察知するだろう。自他の境界に線があって、線の表を擦れる触感が韻律に転化していく。「ありよりのアリ」のようなミーム的な言葉に軽やかに乗せながら、感覚はどこか冷えている。
人類に未だ尾鰭のなく次は代々木上原、代々木上原
この歌にも句割れがある。三句は句割れをしながら、電車の車内アナウンスが歌に割り込んでくる。「人類に未だ尾鰭のなく」一度消えてしまったものをまだないものに認識を変える。生物の進化の時間のスケールは数百万年単位で動いていくのに対して、主体が今この瞬間にいる場所に流れる音を置く。先に主観的な思考を置くと、外部から不特定多数に向けられたアナウンスを感じとる自分の感覚器の動きが客観的にわかるようになる。
これもやはり境界の感覚が強く出ている歌だと思う。「今・ここ・私」の三角形が作る境界があるとして、この歌の主体は常に境界を超えて入ってくる他者を、優しく受け入れているような気がする。はっきりと境界あるが波線のように薄く引かれている線だといえるだろうか。「今・ここ・私」の境界の越境を受け入れながら、元のフレーズをそのままの形で残しておく。交わっても染まらない、しなやかで強靭な心の持ち主だと思う。
大丈夫、犬のかたちをしたものがくるからそこでさわってて良い
本当に大丈夫だろうか。わからないものを怖いと感じる方が自然であって、はっきりとした犬が来るよりも犬のような何かが来る方がずいぶんと恐ろしい。それを主体は自分の飼い犬のように「さわってて良い」という。おそらく「大丈夫」と発話する主体は、犬のかたちをしたものと接した経験がある。何かはわからないが、触っているだけなら攻撃はしてこない。現実とそうでないものの間を緩やかに行き来する。
※𠮷田さんの「𠮷」は旧字の「吉」ではなく下の棒が長い新字の「𠮷」です。たぶん環境によってはうまく表示されないので補足まで。
