居る、または居ない、で言えば居る寄りの夜 隣人の水の音する

𠮷田恭大『フェイルセーフ』2026年

句割れが魅力的な歌だ。四句「夜 隣人の」句割れがある。その直前の句からの文章の続きが、句割れの句に入ってからも続くので、感覚的には文章の途中でいきなり句切れが入って止まる感じと、定型のリズムを崩さないようにすぐにエンジンを入れ直して間に合わせるような、一瞬の時間のずれがある。この一瞬の停止を心地よく感じる句割れは良い句割れだと思う。

夜 隣人の」の一字空けはおもしろい。助詞を補って「夜に」「夜は」とすれば文章は繋がるが「夜」で一度止めている。一字空けをしない場合は助詞の省略に見えただろう。

見た目には空いているけれど定型のリズムに乗せて読むときのこの空白はほとんど時間的な間を空けずにそのまま「よるりんじんの」と読める。「いるよりの」「よるりんじんの」の韻律はかなり心地が良い。「る・よ・り」の三音中心のリフレインは素朴でどこか牧歌的な懐かしい雰囲気がある。使う音を絞って歌を作っていくと、意味よりも韻律が前景化してくる感じがする。限られた音階でメロディーを作るとある風味が出てくるように歌のリズムと音の質感が立体的に立ち上がる。

「居る、または居ない、で言えば居る寄りの夜」は水の音から隣人の存在感を察したということだろうか。洗濯機のゴオオオという音であれば間違いなく「居る」ので、何のための音かわからないちょっとした水の流れの音を聞き取ったのだと思う。それは排水溝の音かもしれない。昨晩の雨がいくらか残っていて、少しずつ溜まった滴が建物の内部を過ぎていった、隣人の部屋の方角から聞こえてきた音かもしれない。

部屋にいながら、自分以外の世界の動きを感じ取る。それがたまたま隣の部屋の方から聞こえてきただけであって、窓の外を風が流れる音がしても、この主体は鋭敏にその動きを察知するだろう。自他の境界に線があって、線の表を擦れる触感が市に置き換わる。「ありよりのアリ」のようなミーム的な言葉に軽やかに乗せながら、感覚は冷えている。

人類に未だ尾鰭のなく次は代々木上原、代々木上原

この歌にも句われがある。三句は句割れをしながら、中央総武線の車内アナウンスが歌に割り込んでくる。これもやはり境界の感覚が強く出ている歌だと思う。「今・ここ・私」の三角形が作る境界があるとして、この歌の主体は常に境界を超えて入ってくる他者を、優しく受け入れているような気がする。はっきりと境界あるが波線のように薄く引かれている線だといえるだろうか。

話が完全にずれてしまうが、内田樹『市場の芸術論』に「今・ここ・私」の視点でものを見ることを自制しろ、というようなことが書いてあって軽い反発を覚えた。60年前のビートルズのデビュー時のマッシュルームカットとスーツ姿を見て、当時の人は彼らの長髪を批判したという。今から見ればむしろ髪は短くて……という当時と今の感覚の違いの話が例に挙げられていた。内田は、客観的な視点を装って価値判断しようとする人に節度を持てと言っていて、個人の率直な感想をどうこういうものではない。そうわかっていてもスルーできないのは、私が短歌を「今・ここ・私」の視点から読もうとしているからだ。個人的な独りよがりな読みと自覚をしながら、時に批評の形を装いながら短歌について語ることは「節度」がないと言われれば特に否定はできないけれど、短歌は、作品に相対する客観的で厳密な読みと、一度自分の体を通して短歌を味わい追体験を想像しながら他の読者に向けて私個人の体験を共有する読み、この両方が自然に受け入れられる独特な言論空間があるからおもしろいのだ。

刃牙ならばいつまでも読んでいられる。刃牙に終わりがあってよかった

大丈夫、犬のかたちをしたものがくるからそこでさわってて良い


※𠮷田さんの「𠮷」は旧字の「吉」ではなく下の棒が長い新字の「𠮷」です。たぶん環境によってはうまく表示されないので補足です。

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