舌という薄い肉片ぎこちなくわたしの舌とまじわるしばし

村上きわみ『キマイラ』2001年

第二歌集の『キマイラ』は長らく絶版となっていたが、2025年に刊行された『とてもしずかな心臓ふたつ』に第一歌集『fish』とともに収録され、入手しやすくなった。村上は1961年北海道釧路生まれ、2023年に逝去された。『とてもしずかな心臓ふたつ』は遺歌集である。この歌集タイトルについて、歌集の編者を務めた錦見映理子のあとがきに「自分ときわみさんのことのようだと思うと同時に、たぶん本書を読むお一人お一人が、きわみさんと一対一で向き合って、しずかに心を響かせ合うことになるだろう」と言葉を添えている。親しい友人である錦見によって選ばれたタイトルは、村上の歌の美質をよく捉えていると思う。

「心臓ふたつ」にもあるように、身体のごく一部が言葉によってしずかに持ち上げられて、すぐ近くに置かれる。肉体はどうやっても一つにはなれない。体が触れ合う時は、どうやっても点でしか接することができない。点の座標を変えながら、触れ合える場所を少しずつ探してゆく。「舌」は身体的な男女の性別の違いによる形状の差がほとんどない器官で、誰しもが持っている「薄い肉片」を重ね合わせるというのは、対等な関係性の中でお互いに様子を伺いながら距離を詰めていく様子を観察しているようだ。「しばし」立ち止まる様子を「舌」の感触で感じとる。

「薄い肉片」にはほのかに死の意識があるのではないか。体という全体から器官を取り出せばたちまちに動きを止めて肉片となる。全体と一部という構図の意識は身体的な認識にとどまらないもう少し大きなスケールの比喩でもあると感じる。身体から「心臓」と「舌」を取り出すのは作者であると同時に、作者自身と相手の二人もまた大きな全体から隔絶された存在(=全体に仕える器官であった存在)となるフラクタル構造を読み取れる。

なつかしい未来 あなたともう一度くんだりあいしあったりしたい

倒されてより良いかたち見せているわたしの青いよわい自転車

村上は、世界から隔絶された場所にいる。村上には、世界から隔絶された場所が必要だった。2000年代初頭の空気感。まだインターネットが社会に浸透する前の、泡のような小さな世界があちこちに生まれては弾けて消えていった時代。「薄い肉片」から感じるたよりなさや冷たさは、泡同士がたやすくつながりを持てる現代の感覚がどれだけ特殊なものか、思い出させてくれる。

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