持続可能な人生

少し個人的な話をしてみたいと思う。遠回りになるかもしれないが、短歌に関連する話も出てくるので、気長にお読みいただけると嬉しい。

 

 

最近また、フルートの練習をするようになった。実に7年ぶりでアマチュアオーケストラに参加して、7月には演奏会も控えている。7年というブランクはたしかに技術的な衰えを容赦なく私に突きつけたが、それでも演奏に際しての身体感覚は練習を重ねるごとに回復してきたように感じる。アパート住まいなので、週末などに都内の時間貸し練習室を借りては、昔レッスンで吹いた譜面をさらい直したり、IMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)でダウンロードしたパブリックドメインの楽曲に挑戦したりしている。

いいご趣味をお持ちで、と人は言うかもしれない。今でこそ私自身、音楽のことを私の人生を豊かにしてくれる最良の収穫物のように思っているが、かつては音楽を「趣味」だと言ってしまうことに抵抗があった。7年前、その時点で既に人生の半分以上をともに過ごした楽器をクローゼットの奥深くへ仕舞い込むことに決めたのも、一人のアマチュアとして音楽と関わっていかざるを得ない自己の現状をある種の「敗北」のように捉えたからだった。

ある時期から、純粋に音楽を楽しめなくなってしまったような気がする、それは一体いつからだろう。そう思い返してみて行き着いたのは、高校1年生の春の三者面談の記憶だった。音楽大学に進みたい、プロの音楽家を目指したい、という夢を打ち明けた時、私の家ではもうお決まりになっていたやり取りが生じた。「どうしてお前にそこまでしてやらなきゃいけないんだ?」――今思うと、殺伐としたやり取りを見届ける羽目になった当時の担任はさぞかし肝を冷やしていたことだろう。

自分には挑戦するだけの才能があるはずだ、と勇気を出して答えを口にした時、保護者だった人から漏れたのは紛れもない嘲笑だった。

勿論、大人になって縁を切った今から思えば、平成の不況の煽りをもろに受けたあの家に、高倍率かつ将来の保障もない音大受験なんて許可できるはずがなかった。独り立ちできる力を早く身につけてほしいという気持ちも、実の子ではない私に対する教育方針としては、厳しかったとはいえ理にはかなっていた。だが結局、自立を焦るように促された経験は私にとっては「存在には理由が要る」という肌感覚の要因になったし、劣等感と反発心をいくらでも増幅させた。どこまでも付きまとう「幼少期の不幸」「複雑な家庭」のレッテルを憎む一方で、それらのレッテルを知らず知らずのうちに内面化していったようにも思う。

そんな私が次第に、「見返してやる」という人生のサクセスストーリーへと執着していったのは、ある意味では自然な成り行きだった。私が私らしく生きるためには、どうにかして自分の「才能」を、他者からの評価によって証明しなければならない。――そんな焦りと憎しみが、10代後半から20代にかけての私の心の中で幾度も暗い渦を生み出してきた。音楽なら趣味として続けていけば良いではないかと、たくさんの人に言われてきたが、そのたびに私は心の中で、それではいつまでも「その他大勢」あるいは「「その他大勢」以下」から抜け出せない、と苛立っていた。そしてこれらの負のエネルギーは、活動の幅が広がるにつれて、音楽から文学へと移行していくことになる。

7年前に一旦楽器を置いた時も、短歌の活動に積極的に関わるようになるにつれ、非正規雇用の少ない賃金でやりくりするのがいい加減しんどくなったというのが大きな理由だったが、同時に、アマチュア奏者に対する評価なんて所詮は井の中の蛙へ投げ込む生餌に過ぎない、という呪いのような自己認識もまた、制御できないほどに膨れ上がっていた。――こんなはずじゃなかった。このままではいけない。好きだったはずの音楽を過剰な自意識を宥めるために追い求めるおのれの姿に絶望した末での、一時休止だった。

今現在の私自身も、全てが吹っ切れた上でアマチュア奏者としての活動を再開したわけではない。ただ、そろそろ自分で自分のことを認めてやる練習を、自分の好きなものを通じてやってみても良いのではないかと思っただけのことだった。そんな思いが心に湧いてきて初めて、私はそれまで本番の都度感じてきた演奏する楽しさやアンサンブルの魅力について、如何に見ないふりをしてきたかに気づかされたのだった。

 

 

初めて新人賞に応募したのは、17歳の冬だった。初めて書いた小説は、それはそれはひどい出来だったと記憶している。

短歌と出会った20歳の時、私は実家を勘当同然で飛び出して、残り2年の大学生活のどう工面したものかと途方に暮れていた。前述したように、音楽にはほぼ縋りついている状態だったから、サークルを辞めるという選択肢は無かった。他者からの「評価」による一発逆転を夢想しては小説の新人賞や作曲コンクールへの応募に奔走したが、やがて、夜勤バイトとサークル棟と自室のベッドの上を行き来する生活に疲弊して、散文がまるで書けなくなってしまった。もしあの時、ちょうど発売されていた「文藝」2009年夏号の穂村弘特集を手に取っていなかったらと思うと、うすら寒い気持ちになる。短歌と出会い、縋りつく先が分散したことで、私の中の表現しようとする力は辛うじて息を吹き返したのだった。

だが一方で、他者からの「評価」によって自身の「才能」を「証明」しようという、他者優位の自己承認モデルは、より強固なものになっていったように思う。

時々、自分がこれまでに書いてきた時評や評論のことが不安でたまらなくなる。自分自身の承認欲求に足を取られて、現実の事象を歪めた形で記述してしまってはいないか、しかしそんな告白を書いてしまったら「この書き手の認知は歪んでいる」というレッテルを貼られて干されてしまうのでないか。そんな答えが出るはずもないことを、延々と考えてしまう。

以前、参加した同人誌に対して、この本からは上の世代から凄いと思われたいという野心が感じられる、という評を受けたことがある。私自身はその場に同席していなかったため又聞きであったが、聞いた途端に湧き起こった感情が、当然だ、それで何が悪い、という開き直りだったのは今でもはっきりと覚えている。

これは言い換えれば、「上の世代」のような「評価」を司る存在=他者にどう思われようが作品を書き続けられるタイプの表現者がこの世界に存在することを、認められなかったし、認めたくもなかったということでもある。認めてしまえば最後、私の「敗北」が確定してしまう、生まれでも育ちでも、才能でも経験でも、勝てることはないだろう――。他者からの「評価」に偏重した自己承認モデルが問題なのは、こうして容易に既存の権力構造の容認や排他的な感情に結びついてしまうからだと、もっと早く気づいていれば、とも思うが、過ぎたことは仕方がない。放っておけば、他者をどんどん自分自身の欲望実現のための装置として見てしまいかねない、そんな自分自身と、ものを書くたびに向き合う運命に私はある。

歪んだ自己承認欲求が他者をモノ化してしまう、ということを思うたびに、思い出す歌とそれにまつわる文章がある。

 

休職を告げれば島田修三は「見ろ、見て詠え」低く励ます
(染野太朗『あの日の海』本阿弥書店・2011年2月)

 

 休職します、と電話したとき島田修三は、ものをよく見て詠え、周囲のものをよく観察しろ、と言った。休職の話をしているときになぜ歌の話をするのだろう、と思った。励まされているということだけはわかったので、はい、と答えた。でもそういうことではなかった。自分のことなど観察するな、ということだった。他者を見つめろ、ということだった。おまえがこだわっている「自分」なんてどうせちっぽけなものなんだ、そのちっぽけなものを自閉的に見つめているから苦しくなるんだ、今詠うべきはそれじゃない、他者を詠え、とたぶん言ったのだった。
 それは歌の話ではなかったのだ。
(染野太朗「自選メモ」「短歌往来」2015年1月号(特集:次代を担う歌人のうた―自選30首))

 

今こうして引用してみても、ああ、と呻き声が出てしまう。無論、私自身の心理状態は、当時の染野のそれとは一致しないだろうし、島田が見て取った染野像とも一致しないだろう。それでも、この歌や文章にふれるたびに心が波立つのを感じるのは、自分自身の「ちっぽけ」さを未だに受け入れられないからなのかもしれない、と思う。

他者の視線を過剰に内面化した状態とは、分かりやすく書けば「自分の中に(他者由来の)自分がいっぱいでうるさい」ということになるだろう。成功や一発逆転に固執した精神が、自身の「ちっぽけ」さを虚飾をもって覆い隠そうとしているのかもしれない。そして、そういう心理状態の時、現実に存在する他者は視界にすら入ってこないことが多い。実際、私の歌の中に生き生きとした現実の他者が描写されたことがあったかと問われると本当に心もとない。いつか読んだ、精神科医の水島広子が書いた本に出てきた一節が、谺のように頭に響いてくる。

 

(…)自己肯定感が低いと、相手をリスペクトすることができませんし、相手をリスペクトすることができない人は、概して自己肯定感が低いものです。
(水島広子『自己肯定感、持っていますか?』大和出版・2015年6月)

 

思えば、感染症による自粛生活が続く中で、誰かに会いたいなどと思ったことは一度も無かった。他者に晒されない日々が心地良くすらあった。だが、実在する他者に会わないことは、内面化された「他者」の活動の活発化に確実に繋がってしまっていた。

昨年、私家版で評論集を纏めた際、あとがきに次のように書いた。「語気が強くなっている箇所からは、怯えながら威嚇しているかつての自分の姿が想像され、作業をしながら何度も居心地の悪い思いをした。けれども、まとめる過程で、ずっと引きずっていた心の波立ちに対してある程度の訣別を果たすことができたように思う」「これからはもう、自分の存在価値の有無に怯えて他人の顔色を伺いながらものを書くような真似はしないだろう」――。今思うと、これは単にそうありたいという願いを書いただけの文章だが、一年が経った現在も、私は自分自身が怖くてならない時がある。本当に、私なんかが、表現なんかして、良いのだろうか、と。

良いんだ、と声をかけてやりたい。過去の自分にも、そして、もしも同じように内面化した「他者」の声に苦しんでいる表現者がいたとしたら、その人にも。誰かに認められなければ存在が承認されないなんて、ありえない。技術とは、毎日少しずつ違う自分を生き続けるための糧であって、不変の評価を得るための道具では決してない。そして、そのことに気づくまでかかった時間も、無駄なんかでは決してないのだと。

 

 

ものを書く、何かを表現する、という行為の個人的始原を辿っていくと、小学生時代の無地のノート、いわゆる自由帳に行き着く。ある時期、自宅で漫画を読むのを禁じられることがあった。読むのが駄目なら自分で描けば良いじゃないとどこかの王妃みたいなことを考えた私は、過去に読んで頭に焼きついていた漫画の場面を自由帳のページいっぱいに模写し始めた。そこからオリジナルのキャラクターとストーリーで物語を作り始めるまではあっという間だった。大人しく机に向かうようになったと勘違いされて漫画禁止令はすぐに解かれたが、今度は四六時中自由帳を広げている子どもが出来上がってしまった。

やがて、無地のノートは五線譜やルーズリーフ、果てはパソコンの画面へと替わったが、根本にある心持ちはあまり変わっていない気がする。いや、むしろ変わっていないという事実から私はずっと目を背けてきたように思う。書くという行為は私にとっては元来みずからを充足させる行為であったはずで、オリジナリティや個性といった概念は後からついてくるものだった。だが、他者や世界と出会い生長する過程で知った羞恥や嫉妬、あるいは幾つかの忘れられない呪いの言葉によって、いつの間にか、自己の能力のみによる一発逆転と復讐の未来ばかりを夢想し逃避する癖が、鍋の底の焦げ付きのように心の底の方にこびりついていた。思えば初めて新人賞に応募した17歳の冬から、ボタンの掛け違いはすでに生じていた。

ここ数年、心の武装解除と称して、自分の内部に自己の内部に圧し込めてきたものと向き合う中で、さまざまな出会いや言葉を思い出してきた。時には思い返しただけで苦しくなり、丸一日寝込んでしまうほどの記憶もあるが、それでも、ああ、あの時のあれは、ああいうことだったのだな、と再確認するようなことは多々ある。

染野の歌や文章と同じような流れで思い出す言葉が、もう一つある。

 

 これは短歌の入門書です。
 この一冊を読んだあとに、もっと短歌を作ろう、上手くなろうとおもってもらうと嬉しい。けれど、明日から誰のせいにもしないしたたかな心をもって人や事物と付き合い、自分にしかできない生き方をしようとおもってもらうほうがもっと嬉しい。
 それは、短歌を忘れている時間をいかに濃密に生きるか、ということが短歌を作るために大切なことだとおもうからです。
(江戸雪『今日から歌人!』すばる舎・2012年5月)

 

こんな言葉から始まる短歌の入門書を読んだ時の私は、その時一番うつの症状が重かったというのもあるが、一瞬何を言われたのかまるで理解が追いつかなかった。だが、この言葉はたしかに私の心に引っかかり、折に触れて思い出してきた。今でもこの本は、丘の上にそびえる一本の木のように、私のものを書く際の心の道しるべとなっている(なかなか到達出来そうにないが)。

「自分にしかできない生き方」を、他者の評価に寄らずに一人で踏みしめていく生き方のことだと私は解釈する。市場経済とポピュリズムが強固に結びついた結果、Amazonの評価やSNSの「いいね」などを通じて、私たちは他者の評価が数値として目に見える現象にすっかり慣らされてしまったように思う。私自身もそれゆえ、自分の「人生」の独自性なんてあまり信用出来ておらず、こうして自分の過去を書き連ねるのも結局はその物語に何らかの需要を見込んでいるからではないか、という邪推が常に付きまとう。「人生」や「人間」あるいは「他者」といったものにまで、需要と供給のモデルが染みついてしまっている現状を、私自身を通じて感じ取るのである。

だから、もしかすると、どんな自分であっても受け入れるというより、受け入れない=需要しない自己を絶対に設けない、ということが大切になってくるのかもしれない。

 

 なにをどう短歌にしても、今生きている自分の姿が透けてしまいます。もしかすると、誰にも見せたくない弱くて醜い自分が表れてしまうかもしれません。それを自覚し、いい格好をせず、恥をさらしてしまう覚悟がいります。
 そこまで覚悟して作るのが、短歌なのです。
(江戸雪『今日から歌人!』すばる舎・2012年5月)

 

覚悟、と聞くと怯む気持ちもあるが、今読むと、これは先に引用した水島の文に見られるような自己肯定感を別の形で表したものであるようにも見える。

かつて、真っ白な自由帳に鉛筆書きの漫画で埋め尽くしていた日々のことを、ものを書く行為がそのままsecurity blanketであった日々を思う。心を擦り減らす年月の中ですっかり遠ざかっていた安寧の記憶を、そっくりそのまま取り戻すことは不可能だ。だがそれでも、私は私を、あなたはあなたを生きているということを、互いの境界を歪めないままに受け止めていく作業を、始め直し、持続することは、誰にゆるされるまでもなく可能であるはずだと、私は信じている。

作品を生み出し、表現するという行為は、自分を他者に認めさせるための行為でも、自分自身を認めるための行為でもない。大学時代、講義で腐るほど聞いた「目的なき合目的性」という言葉を思い出す。書かない、書けない、評価されないと自分を呪いたくなった時には、自分の存在理由を自己の創作物に求めていないか、一歩引いた視点で点検すると良いかもしれない。私自身、暗い渦に飲まれていることの方が多いが、それでもこうして文章を締めようとしている時などは何とか踏ん張っている。作品が自分の手を離れていこうとする瞬間の心もとない心地良さを、大切にしたいと思う。

そして「人生」とはなにも、自分自身を切り刻んで火にくべることではない。それは短歌の創作においても当てはまることだ。誰にでも受け入れられる一般化された「人生」も、あるいは物語として消費されやすい特殊化した「人生」も、表現のための需要として求める必要など本当はないはずなのだ。そう思えた時、私は「人生」という言葉の呪いの正体を、少しだけ別の角度から見ることが出来た気がした。