平岡直子の近作短歌(歌集未収録の短歌)

歌人にとって詩情(ポエジー)と同じか、それ以上に大切なものが市場(マーケット)での評価です。総合誌を舞台とする歌壇は歌人に金銭的な豊かさを与えることはありません。歌集を出版するとほとんどの場合はお金をとられます。私はその状況を変えたい。
当面目指すべき状況は、なるだけ多くの歌集が著者に印税を支払う企画出版になること。そして望ましい状況が、原稿料の上昇により若手の職業歌人が生まれること。新聞歌壇の選者は歌人に安定的な収入をもたらしますが、選者になれるのは50代以降が一般的です。それまで若手歌人は他の仕事について生計を立てるか、僅かな短歌の仕事で赤貧に耐えるかしかありません。悲しいかな! 『はじめての近現代短歌史』を書いていたら食べたものの三分の一くらいが胃から出てくるようになり、執筆時間と引き換えに職を失ったりもしました。印税が入ってきたらあと三ヶ月くらいは生活できるので、その期間だけでも、石川啄木よろしく自らの文学的命運を徹底的に試験してみたいと考えています。

そんなことを考えているからか、最近は短歌を読んでいても、たびたびお金の話をされている雰囲気を感じます。私が最近いちばん楽しみにしていて、短歌でも散文でも掲載されていたら必ず雑誌を買うことにしている歌人は平岡直子なのですが、特に平岡の短歌を読んでいると、お金の話をされている雰囲気を感じてしまいます。平岡は『現代短歌』2022年7月号から4ヶ月おきに(つまり2号おきに)24首の作品連載を続けていて、全8回が2024年11月号で完結したばかりです。歌人論を書くなら絶好のタイミングと言えるでしょう。そういうわけで最近は手元にある総合誌や同人誌をひっくり返して、第一歌集に収録されていない平岡の連作をできるかぎり拾い読みしていました。
『現代短歌』の作品連載を読む中で目に付いたのは次のような歌です。

ない袖の振ればそこからない月がふたつも転がり出るまぼろしよ
――平岡直子「回線」『現代短歌』二〇二二年七月号

口うつしでお金をあげるここにだけ前世も来世もあると思った
――平岡直子「金色」『現代短歌』二〇二三年七月号

一首目では出がらしの打ち出の小槌を打つように、「ない袖」を無理矢理に振っています。「ない袖は振れない」はお金がないことを意味する慣用句ですが、「振袖」という高価で豪華な晴れ着を文字上に含んでいるために、ないはずのお金が見せ消ちとして、幻のように想起されてしまいます。振袖の長い袖には月が二つくらい収まっていても不思議ではありません。

二首目は6月の月のコラムでも引用した歌ですが、お金を食べ物のように「口うつし」で扱っていることがやはり魅力的です。生産手段を持たない都市民はお金を払って食べ物を買います。そうやって買った食べ物を食べるとき、特にコンビニのおにぎりの場合が顕著なのですが、私は100円なり200円なりを食べている感覚を拭い去ることができません。食べ物でできているはずの身体もお金に還元されて、お金の有無が身体の大きさを決めていくような気さえしてきます。こういうのを「疎外」と呼ぶのでしょうか。だからこそ、お金が食べ物のように扱われているこの歌は嬉しいのです。お金の意味が茶化されると嬉しくなります。900円でお腹いっぱいになるのなら、1万円を口移しすると、現世だけでなくお釣りとして前世と来世分くらいの身体が出現しそうな気もしてきます。
お金の歌は探すともっと見つかりました。連載以外の作品も引きます。

トイレもお金も少しなら貸すそれよりも心の濃さをみせてあげたい
――平岡直子「水に寝癖」『歌壇』2018年11月号

爪を切るときにあなたを思わないドルのレートが細かく揺れる
――平岡直子「眼前紀行」『外出』四号(2020)

これらの二首でもお金の意味がやや茶化されています。一首目では全く違う行為が「貸す」という動詞への接続によって等価に扱われています。トイレは貸してもなくなったりはしませんし、トイレをたくさん貸す状況はあまり想像できません。お金は貸すとたいてい帰ってこないのに。それにしても薄ら怖いのが三句目以下です。心に濃淡があったとは寡聞にして知りませんでした。一般的に濃い色は明度が下がります。だから「心の濃さ」は心の闇の話につながりそうで、トイレを借りたりお金を借りたりしている状況では遠慮しておきたい。
二首目の方では、「ドルのレート」が風に揺れるカーテンのように揺れています。ちなみに連作タイトル「眼前紀行」は岡井隆歌集『眼底紀行』のもじりでしょうが、それが何を意味するかは、今のところおもしろい読み筋を思いついていません。短歌に戻ると、爪の曲線と、細かく揺れるレートのギザギザ感も対句的に気持ち良い。不安定な為替相場は人間を不安にさせます。理詰めで読めば、為替相場の動きによって想起された「あなた」と、同じく為替相場の曲線によって想起された爪を切る行為がかき混ぜられた一首ということになるでしょう。「思わない」と見せ消ちされた「あなた」の存在は蝶番くらい小さくなっており、お金と同時に恋歌の構造も茶化されているように見えます。

それにしても、平岡作品にはそこはかとなくお金がない雰囲気も漂っています。

わたしはいま わたしはここにいるようでそのストローのなか上下する

抱卵よ(あまねくカプセルホテルへの愛がカプセル型をしている)
――平岡直子「金字塔」『短歌』2019年7月号

さっきからしずかなスターバックスの緑のようにお金がないの
――平岡直子「SNS」『外出』7号(2022)

月の内側 せまくて膝を抱えつつときどきクレーターにさわった
――平岡直子「取り残されていることほど美しいことはない」『歌壇』2024年10月号

引用三首目では明確に「お金がない」と言っています。お金がない感覚は狭さに通ずるようで、平岡作品の主体はしばしば「ストローのなか」や「カプセルホテル」といった狭い空間に閉じ込められています。連作を続けてまとめて読むと、五首目の「月の内側」はカプセルホテルのことではないかと思ってしまいます。だんだん辛気くさくなってきました。貧すれば鈍すると言います。絶望がひたひたと近づいてきました。
絶望感の濃厚な短歌には次のようなものがあります。

絶滅はとてもさみしいことだからどうしてもするときはひとりで
――平岡直子「フラワーロック」『外出』3号(2020)

赤ちゃんは自分のサイズがわからずにスマホのなかへ送られてくる
――平岡直子「SNS」『外出』7号(2022)

貧しさにも段階があり一枚ずつさらわれていく半紙の束よ
――平岡直子「ますかれいど」『外出』8号(2022)

治ったら忘れてしまう切り傷の履歴をすべてみせてもらえる?
――平岡直子「吊り橋」『外出』9号(2023)

水だって落ちるときには垂直に落ちる預金額ゼロのきらめき
――平岡直子「金色」『現代短歌』2023年7月号

もっといいことがあるはずだって信じてる川の底では空き缶たちが
――平岡直子「取り残されていることほど美しいことはない」『歌壇』2024年10月号

特にひりひりとした焦燥感が強いのは、引用三首目、四首目、六首目です。三首目の半紙は少しずつ、しかし確実に失われていく紙幣の喩でしょう。日めくりカレンダーと半紙の束は質感が似ていることもあり、同時に歳月も失われている感覚をもたらします。四首目にはいままで負ってきた古傷の全てを一度に開こうとするような悪意があります。
六首目は川底の空き缶という釣り人に悪態をつかれるくらいしか現世と接点のない存在に「もっといいことがあるはずだ」と言わせることで、何かを信じることすら無効化してしまうような、並々ならぬ絶望に巻き込む力を感じます。

平岡直子の絶望感はただお金がないことに由来しているわけではありません。平岡は現代歌人の中でもかなり巧妙に社会詠を書いています。私は批評の書き手として、高度な社会詠ほど社会詠に見えなくなることを感じています。具体的な作品を引きましょう。

産む機械じゃないからわたしは機械でもないのかもしれない、夏の雨
――平岡直子「取り残されていることほど美しいことはない」『歌壇』2024年10月号

マッチングアプリ? と声が高くなるべつに見捨てていない祖国は
――平岡直子「磁石」『現代短歌』2024年7月号

フェミニズム批評も可能であろう歌を引きました。本邦には「性と生殖に関する健康と権利」(※1)の観点からしばしば批判的に扱わなければならない事象が転がっています。例えば二首目で言及されているような、行政によるマッチングアプリとか(※2)。一首目の「産む機械」発言も同様です(※3)。
けれどもこれらの短歌をそのままプラカードに書くことは難しいでしょう。一首目は「産む機械じゃない」までなら一般的な主張として通りますが、それを理由として「わたしは機械でもない」と言うのは奇妙です。そして機械である可能性を留保するような「かもしれない」が続きます。まるで機械であることは良いことと言わんばかり。字余りと句またがりの多いガタガタとした韻律も、主体が機械であることを偽装しようとしているように見えます。ここまで考えたとき、逆説的に浮かび上がってくるのが「産む機械」の奇妙さです。人間は人間からしか産まれません。もとの発言の中で「機械」は比喩的な表現でした。けれどもこの短歌の中では、人間を機械に喩えるいやらしさが解体され、発言自体が意味を成さなくなっています。
それから、内臓に関する歌。

演説をするヒトラーの心臓の収縮よ 閉経は遠くて
――平岡直子「幽玄」『短歌研究』2021年1月号

内臓はどれもわたしが思うより小さいしょうがチューブを握る
――平岡直子「神社についての考え」『短歌』2024年1月号

どちらの歌も締め付ける/締め付けられるイメージが付随しています。ヒトラーの歌では、ヒトラーと閉経の遠さ、主体と閉経の遠さ、そして主体とヒトラーの遠さが三角形を成しています。閉経は訪れるまで常に遠いものですから、時間的な距離のいびつさは無効化されます。演説するヒトラーの映像を見ると、あの激しい演説の仕方は本人の心臓に悪そうだと思います。実際のところあの演説は多くの人に有害な帰結をもたらしました。それと、閉経は加齢と共に訪れるものであり、生き物としての死が近づくことを予感させます。
これらの歌を読んでいると、いまも昔も、これからもずっと窮屈で、生理痛は社会的な窮屈さが具体化したものなのだろうかと思わされます。仮に近代医学が女性の身体を中心に発達していたのであれば、痛みは放置されることはなかったでしょうから。

まともに社会を見ていると、人を絶望に追い込む事象が多すぎます。絶望したままでは生きることができないので、生きるためには何かしら言葉にして、その絶望を対象化しなければなりません。もちろん、短歌が社会に作用して、社会がその通りに変化すると信じることはできません。それでも、鑑賞される言葉=文学として、未来に言葉を投げておくことはできます。
絶望感は比喩として戦争の形をとることもあります。

置き配のすかすかの箱 戦争をしてないことにまだ慣れないな
――平岡直子「根性論」『歌壇』2021年8月号

ロシアによるウクライナ侵攻以前の歌を引きました。運送業の現場が疲弊していることは近年広く知られるようになりました。「置き配」はその状況への対処として実践されています。また、大きな箱の中身がすかすかでとどくと、何か裏切られたようで悲しくなります。現場は混乱していて、みんな大変なんだろうとは思いつつ、戦争していないのにここまで大変なのはなぜなのか。「慣れない」という言葉からは、静かな嘆きが聞こえてきます。2022年のはじめまでは、戦争はもう起こらないものだから、言葉として寄りかかることができたように思います。

ところが国民国家間の戦争は起こりました。その結果、2024年現在に比喩として戦争を語ることには倫理的な抵抗を覚えます。それ以後の歌も見てみましょう。

天王星はわたしのための星じゃない生クリームに匙をしずめて
――平岡直子「傾国」『現代短歌』2023年3月号

人体のこわれやすさがしらじらと桜吹雪となにが違うの
――平岡直子「戦争のことを考えるには戦争のように考えるしかない」『外出』11号(2024)

「天王星」が「天皇制」を暗に意味することは言うまでもありません。人間は空気も水もない天王星に住むことはできませんし、そのように、天皇制は住むに適さない場所です。現に皇族には人権があるのかよくわかりません。ところで、わかりやすい上句に対して、下句はその意味するところがそこまで明瞭ではありません。生クリームのたやすく形を変える性質などに注目すればいいのか。そこで近場の喫茶店に行ってウィンナーコーヒーを注文し、実際に生クリームに匙を沈めてみました。実際にやってみると手応えのなさに驚きます。目をつぶってみると生クリームがあるのかないのかわかりません。この読み方はあまり良いものではないと思いつつ、一旦は、上の句の主張をすることの手応えのなさが喩えられているものと読むことにします。
二首目は、突風が吹くと桜吹雪が舞うように、爆風で人体がバラバラに舞う様子をイメージするといいのでしょう。「白々しい」には真っ白なことと嘘みたいなことの二つの意味があります。前者が桜吹雪に繋がり、後者は人体をそのように扱う爆風と戦争への非難に繋がります。念頭に置くべきはガザ地区への空爆です。空爆の報道に慣れると、人間の死が塊として理解されるようになります。一度の突風で散る桜吹雪に何枚の花びらが含まれているかを私たちは気にすることがありません。そのように、一度の空爆で何人が死んだのかを伝えるニュースも、数字の意味が失われつつあるのではないか。この歌は反語的にガザへの無関心を浮き彫りにしています。

物語ならば、最後は希望の話をして終わらねばなりません。希望、のようにも見える短歌を引きます。

女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに
――平岡直子「一枚板の青」『外出』創刊号(2019)

掲出歌は初出時の2019年から名歌として引用されています。「女の子」は「男の子」より紋切り型のイメージを帯びているために、そのイメージを逆手にとって、ぺらぺらの紙のように裏返されても不思議ではない。裏側に書き込まれた「草原」は開放的です。草原に放たれた馬は自由に見えます。またつながっている草原はシスターフッドの夢も感じさせます。葛原妙子はかつて「奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが纍々と子をもてりけり/葛原妙子『橙黄』」と書きました。葛原の歌の「奔馬」側だけを取り出したら掲出歌のようになるのでしょう。
けれども、「つながっていればいいのに」が示すように、この歌は反実仮想だからこそここまでの輝きを帯びています。現実はそうではない。絶望が強いほど輝く短歌ならば、その歌が描いているのは絶望の方ではないか、と思います。紙に書いて埋めておいたら呪いの木が生えてきそうな絶望です。

それでも私にとって平岡直子の短歌が嬉しいのは、ちょうどこういう呪いの言葉を社会に埋め込みたかったからだと思います。繰り返しますが、短歌が社会に作用して、社会がその通りに変化すると信じることはできません。だから、鑑賞される言葉として私たちに投げ出された短歌に願い事が書いてあると、にわかに呪術的な(魔術的な?)様相が見えてきます。
私はこの呪術性に次の時代の短歌の理想を見ています。

 

※1 この場合は妊娠・出産・中絶などに関する自己決定権を思い浮かべるとよいでしょう。

※2 東京都による行政主導の婚活マッチングアプリ開発が報道されたのは2024年6月のこと。これは行政による結婚への圧力と、民業圧迫の観点から批判されました。同サービス「AIマッチングシステム「TOKYO縁結び」」は同年9月20日よりサービス提供を開始し、現在に至ります。

※3 「産む機械」発言は2007年1月のもの。当時の厚生労働大臣による。