永井祐の近い実感、郡司和斗の『遠い感』、瀬口真司は詠嘆しない。

 


短歌の総合誌を読み比べていて、評論の書き手たちが不思議な共鳴をしていることに思い至りました。問題となっているのは、永井祐と「ニューアララギ」、それから青松輝と瀬口真司のことです。

角川『短歌』2024年10月号の特集「現代歌人と歴史意識」では、楠誓英が評論「「ニュー土屋文明」ということ」を寄せています。楠は『現代短歌』2024年9月号で特集された「アララギ新世紀」に掲載の「ニューアララギ10人」に注目しつつ、永井祐における土屋文明の受容が問題となることを結論づけています。曰く、「「アララギ」の歴史は『万葉集』の受容であった」。すると、ニューアララギの歴史をこれから始めるのであれば、土屋文明の受容が問題となるのではないか、ということなのでしょう。
とはいえ、楠が注目するように、土屋文明選歌欄における口語短歌の様相を分析したところで、瀬戸夏子が「ニューアララギ」と呼んだ現象を明快に語ることができるようには思えません。土屋文明選歌欄の口語歌を分析した佐藤嗣二『文明選歌の口語歌』(1997)を読んでみると、文明とその門下の人々は口語が思考を透明に語りうることを信じているように感じられます。それではいけない。
問題は永井祐が何に影響されているのかではなく、現に永井祐の作品がどのような態度を示しているか、にあります。永井の近作を引きます。

ティッシュペーパー5箱パックを買ったけど気にいる色は一つもなかった
-永井祐「六月の話」『現代短歌』2024年9月号

太陽のずっと下には信号と横断歩道の関係がある
-永井祐「太陽」『歌壇』2024年10月号

引用一首目は思ったことが直截に述べられています。私は、そうでしたか、という相槌をうつ他この歌に対して言うことはありません。もう少し近しい間柄の人間の発話だったら、そっか、と相槌をうつところです。それだけのはずなのに、なぜか私はこの歌を引用したくなりました。この、感情として語るには微弱すぎるなにものかを、会話のときと同じように流してしまってはいけない。引用二首目にしても、当たり前のことを当たり前に述べただけであるのに、短歌にされているために、この歌に立ち止まらなければならない気持ちが私に湧いてきます。なぜなのか。
読まれている事物に着目しても、私の掲出歌への引っかかりを説明することはできません。私は短歌の中の淡すぎる心の背後に、この心を短歌にした意志をおぼろげながら感じています。この現象をうまく説明してくれた評論があります。

永井の歌は、第一歌集第二歌集を経て、はてしなくフラットになろうとしている。それは詠嘆から遠いようで、心を喪失してさまよう「ぽぽぽぽぽぽ」、言いか換えれば解離した自己が、なんとか心に着地しようとする、問題意識に裏打ちされた文体なのだ。
-土岐友浩「心をめぐって」『短歌研究』2024年10月号

『短歌研究』2024年10月号の特集「「口語短歌の詠嘆」の研究」に掲載されている、土岐友浩の評論から引きました。ここで言及されている「ぽぽぽぽぽぽ」は、有名歌として知られている「恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず/荻原裕幸『あるまじろん』(1992)」から取り出されたフレーズです。
永井祐はかつて、評論「啄木とぽぽぽぽぽぽ」(『國文學』2004年12月号)の中で掲出歌の「ぽぽぽ」を概念化し、世界を直接的に感じることができない状況として語っています。それを踏まえて土岐は、永井の語る「ぽぽぽ」に啄木の「平なる心」を対比させます。土岐は永井の短歌の軌跡に、「ぽぽぽ」から脱出するための格闘を見出しています。私は永井の歌に魅力を見るのは、この格闘する心の力強さを背後に感じているからなのでしょう。
なお、『短歌研究』の詠嘆特集では、評論のあとに「詠嘆をめぐる座談会」が付されています。付されているというか、付けました。何を隠そう、この特集は髙良が編集部に持ち込んだものです。評論が書かれっぱなしになるのは避けたいですからね。5月の月のコラムに郡司くんが『かりん』7月号時評で反応してくれたので、せっかくだからもう少し詠嘆について考えられる場をつくろうと、『短歌研究』の編集長に会いに行ったのです。評論と座談会の人選は髙良と郡司で決めました。
なんだマッチポンプじゃないかと思った方は、ちょっとだけお待ちください。この特集は最先端の口語短歌を分析する鍵を手渡してくれます。企画時には思いもよらなかったことなのですが、私はこの特集を振り返ってみて、青松輝をクリティカルに語る方法論を思いつきました。青松の作品は中心的な論点になっていないにもかかわらず。私は座談会で印象深い会話に立ち会いました。

土岐 永井さんの作品は、かなり注意深く詠(ママ)まないと、喜びや悲しみから自分の感覚が疎外されていることその隔絶がわからないと思うんですよね。永井さんの第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』の「たのしく」も、「ぽぽぽぽぽぽ」から抜け出ようとした意思のあらわれであること、その出発点を確認したかった。
郡司 その出発点があった上で、永井さんは次に行きたいとなるわけですよね。〔中略〕
土岐 そうです。「よろこびもかなしみも~」の歌から逆算すると、生きる実感というのは、嬉しいとか悲しいとか、喜怒哀楽を表現することかなと思ってしまうんですけど、永井さんが着目する啄木の歌は、全然そうではないんですよね。〔中略〕
郡司 それを踏まえた上で、絹川柊佳さんの短歌は、永井さんが目指している方向に向かっていて、私の歌集は逆方向でぐちゃぐちゃしているというかんじですか?
土岐 そうです(笑)。もちろん、それはどちらがいいという話ではありませんが。絹川さんは地に足をつけていく、郡司さんは、「ぽぽぽぽぽぽ」よりもっと不安定で混沌とした自我を、そのままに詠んでいく。そういう対比が見えるのではないかと思いました。
-「詠嘆をめぐる座談会」『短歌研究』2024年10月号

土岐の評論で永井祐の系譜として語られているのが絹川柊佳であり、郡司和斗は「ぽぽぽ」側の歌人として語られています。この対比には現代短歌のリアリズムの二つの方向性が如実に表れています。
前提として、言語論的転回以後の世界に生きている私たちは、言葉によって感情を直接的に表現することはできません。より正確に言えば、言葉によって感情を直接的に表現できると信じることができません。なぜなら、感情が言葉を生み出すのではなく、言葉という既存のもので成形することによって、はじめて感情が存在することになるからです。
この状況において、よりリアルな実感はどのように表現できるのでしょうか。方法の一つとしては、感情を生み出す状況の外側だけをなぞり、心は混沌としたまま差し出すことです。この方向性が「ぽぽぽ」であり、土岐は具体例として荻原裕幸と郡司和斗を挙げています。対して、もう一つの方向性が「平なる心」の永井祐と絹川柊佳です。この二人の方法では、心をより直接的に、一見すると技巧がなにもないように描いています。では両者のどちらがよりリアリズムに近いのか。土岐はどちらがいいという話ではないと留保しています。私はここに、言語論的転回がもたらしたリアリズムの屈折を見ています。どちらも同様にリアリズムであり、純粋なリアリズムにはなりきれない。もはや純粋さを信じられるほどこの世は素朴ではないのですから。
絹川と郡司の作品を引きましょう。

剣道の防具みたいに安心だ両ポケットにかぶき揚げ持つ
(紙やん)と思った好きな先生に見せる短歌を印刷したら
満員電車で指が点字の上に乗るなんて書いてあるのだろうこれは
オフィーリアのような気分で横たわるソファーベッドにコート着たまま
-絹川柊佳『短歌になりたい』(2022)

あずにゃんのフィギアを買いに行くときの心まみれの心のことを
遠い感 食後にあけたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いてる
殺すよ(暗黒微笑)ってほんとはどんな顔してわたしは書いた? 朝の雷
オフィーリアのように、とか俺が言っていいのか 高画質の心エコー図
-郡司和斗『遠い感』(2023)

絹川の歌の直截さに比べて、郡司の歌は照れ隠しのようなものが見え隠れしています。同じく「オフィーリア」を詠み込んだそれぞれの引用四首目では、絹川が「オフィーリアのような気分」と言えるのに対して、郡司は「とか俺が言っていいのか」とためらいを見せています。ためらいの後に置かれる「高画質の心エコー図」は象徴的です。心臓の鼓動を図示したとしても、心の有様はわかりません。心を象徴的なもので代替させるしかいない手法は紛れもなく「ぽぽぽ」の系譜です。「朝の雷」も「心まみれの心」も、「遠い感」として、いずれも私には、あるいは郡司本人にも、手の届かないところにあります。

そろそろ本題に入りましょう。ここまでの議論を確認したところで、私たちは青松輝を「ぽぽぽ」の系譜に位置づけることができます。竹内亮は現代短歌評論賞受賞作「仮想的な歌と脳化社会:二〇二〇年代の短歌」(『現代短歌』2024年10月号掲載)の中で、青松輝と瀬口真司を共に「わからない歌」の歌人として位置づけていますが、実際のところ、二人の位置づけは大きく異なります。
ここまで私は、「ぽぽぽ」と「平なる心」という、詠嘆する短歌に関する二つの類型に注目してきました。青松は「ぽぽぽ」の手法で詠嘆する歌人です。しかしながら、青松輝と瀬口真司を対比するならば、もうすこし俯瞰的な視点が必要です。瀬口は詠嘆しない方の歌人なのですから。まずは、青松が「ぽぽぽ」の系譜であることから確認していきます。郡司と青松の歌を並べて引きましょう。

オフィーリアのように、とか俺が言っていいのか 高画質の心エコー図
-郡司和斗『遠い感』(2023)

星の存在 きみと話しているときに僕はこわれるほど高画質
-青松輝『4』(2023)

同じ「高画質」が詠み込まれた歌を引きました。どちらの「高画質」も象徴的です。郡司のものは先に確認したように、葛藤する心のトークンとして持ち出されています。青松のものも心のトークンに違いありません。とはいえ、郡司と青松の違いはロマンスにあります。郡司は一人で「ぽぽぽ」的リアリズムを遂行しようとしています。対する青松は、「きみ」という存在がある仮想空間での「ぽぽぽ」を描き出しています。メジャーデビューしたインディーズバンドが恋歌ばかり歌うように。
もう少し青松の歌を引きましょう。

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
冷房の効いているところの独特の匂い ブラック・マジシャン・ガール
思春期のため息として〈バーニラ♪〉にあわせて口だけを動かした
うしろ髪を照れてさわったのは僕で、終わってからが思春期だから。
-青松輝『4』(2023)

引用一首目は『文學界』2022年5月号「幻想の短歌」特集が初出で、雑誌刊行とともに話題となりました。どういうわけか、「4」は「好きだよ」の謂いであることが歌壇では語られているのですが、ここに意味を詰め込みすぎる読みは好きになれません。むしろ恋人がマシンのようになったという設定と、それでも音声入力に返り値が出力されることの方が重要です。「恋人」は青松によって操られていて、この短歌は一人芝居に過ぎません。かつて、そうした孤独を穂村弘の文体に指摘した座談会がありました。

加藤 穂村弘の文体というのは、一見会話体で、他者との関係で成り立っているというふうに見えるのですが、実際はまったく孤独な一人の人間の作業、あるいは操作であって、ここには、文体として会話が入ってきて、他者が侵入すればするほど孤立していくというメカニズムがある。
-「現代短歌のニューウェーブ:何が変わったか、どこが違うか」『短歌研究』1991年11月号

ニューウェーブについて語った30年前の座談会から加藤治郎の発言を引きました。この発言を補助線とすれば、『起きられない朝のための短歌入門』(2023)で平岡直子が青松の歌を「なんだか懐かしい感じすらする」と評するのも頷けます。青松は穂村弘から一人芝居を継承しているのですから。
とはいえ青松も郡司も決して単なるニューウェーブの焼き直しではありません。郡司の『遠い感』がそうであるように、青松の『4』も引用の多い歌集です。「ぽぽぽ」を描き出す舞台装置は30年間で進化を遂げました。彼らは過剰な引用によって「ぽぽぽ」を固有の文脈の中に閉じ込めました。だから感情の中身は読み取れない方が正常です。読み取れてしまうと、彼らは若書きを暴かれた人のように(黒歴史に注釈がつけられるように)途端に恥ずかしい思いをすることになります。謎めいているから恰好がつくのですから。

ここまで、青松がいかに保守的な手法を用いているかについて語ってきました。対する瀬口真司はラディカルです。

リラックスしないなら死ね 自分たちが空からずっと見え続けてる
-瀬口真司「KILLING TIME」『ねむらない樹』vol.6(2021)

この歌は第三回笹井宏之賞で選者賞の大森静佳賞に輝いた連作に収録されており、平岡直子と我妻俊樹の『起きられない朝のための短歌入門』(2023)でも言及されるところとなりました。『短歌研究』10月号の詠嘆特集では、大塚凱がこの歌に注目しつつ、次のように書いています。

この歌の場合、直接的に「詠嘆」と言うのは難しいが、口語における仮定法的な表現や命令形、会話体といった多様な技法を駆使した主体の「隔たり」「曖昧さ」がまた新鮮な感興を生んでいるように思える。詠嘆とは異なる形のカタルシスを感じる。仮に0人称という言葉があるなら、こういうことなのではないか。知能(と思しき何か)を注する主体の出現による、曖昧さを突き詰めた、自傷的な、消滅のカタルシス。
-大塚凱「霞の道」『短歌研究』2024年10月号

特集を振り返ってみて、瀬口真司の歌に対する「消滅のカタルシス」というキャッチフレーズを得られたことが、大塚さんに評論を依頼した一番の収穫だと思っています。誰が、何を、どのように語っているのかが極めて曖昧な状態にされるのが瀬口の短歌の特徴です。もう少し歌を引きましょう。

運命を受け容れます かちり、と音がして給電中のランプが点いた
-瀬口真司「天使給電篇」『いちばん有名な夜の想像にそなえて』(2022)

ま とにかく僕は生まれた 喉奥のガバメントをぶるぶるさせながら
-瀬口真司「バーサークフューラー」『いちばん有名な夜の想像にそなえて』(2022)

水面から飛び出している神経に行え 今度は君のハサミで
電車の中で戻してしまう夢をみる喉に筋肉がつくほど
-瀬口真司「パーチ」『ねむらない樹』vol.10(2023)

瀬口の歌を語る際には戦争のイメージが取り沙汰されます。実際そのように作ってあるとは思いますが、それだけでは瀬口の歌の美点を語ることはできません。たとえ誰が何をどのように語っているかが曖昧だとしても、語られていることだけは読者に伝わります。しかしその語りは意味も由来もわからないとなると、私たちは不安になるのではないか。瀬口の歌が呼び起こすカタルシスはホラー映画のそれに似ています。ホラー映画が娯楽として成り立つのは、私たちにとって、不安と恐怖が娯楽になりうるからです。戦争のイメージはそうした感情を呼び起こす舞台装置に過ぎません。
引用二首目の「喉奥のガバメント」は、政府の意味と、アメリカ軍のかつての正式採用拳銃であるM1911ガバメントの意味が重なっているように思えます。いずれにせよ、暴力装置には違いない。政府は国民を統治するためにあらゆる暴力を行使します。それが「ガバメント」という拳銃の形をとったこともあったでしょう。この「僕」はその装置を喉の奥に装備したフランケンシュタインの怪物です。
だから、わからなさという共通項だけで、瀬口真司と青松輝を同じ項目に分類するのは性急です。青松は詠嘆していて、瀬口は詠嘆しません。そして、詠嘆しない短歌が評価すべきものとして控えていることは、短歌の表現領域に未開拓の沃野があることを示してくれています。

私はここまでの文章で、最初に提示した話題については語り終えました。最後に少しだけ補足をさせてください。
永井祐が「ぽぽぽ」との闘争の果てに願った「平なる心」を実現した歌人は、絹川柊佳以外にも挙げることができます。例えば、まだ歌集は出ていないのですが、私は工藤吹と相田奈緒に期待を寄せています。歌を引きます。

川の向こうに私と同じようにいる傘をさす人、どう、桜は
-工藤吹「バヤリース」『短歌研究』2024年8月号

触ったら湿ったような蝶の写真でそれを乾かすため軽く振る
-工藤吹「きはく」『文學界』2024年9月号

秋を百回見たら私はどうなっているだろう降りかかる黄葉
-相田奈緒「繰り返しているように」『文學界』2022年 5月号

落雪の音に集中していくと他の音まで大きく響く
-相田奈緒「背骨」『現代短歌』2024年9月号

私はこれらの歌に魅力を感じていますが、上手く語ることができそうにないので正直沈黙させてもらいたいところです。とはいえ批評書きとしては許されざること。語りを絞り出します。
工藤の一首目は他人宛ての手紙を見せて貰っているような気持ちになります。結句の「どう、桜は」は、主体が桜に悪い気持ちを抱いてはいないだろうことを伝えてくれます。けれども、気持ちの宛先であるはずの「川の向こうに私と同じようにいる傘をさす人」はこの問いかけを受け取ることができません。仮にモデルになった本人がこの歌を読んだとして、これが私であると確信することはできないでしょう。それが翻って、傘をさして川辺の桜を見たことがある私としては、もしかすると私宛に書かれているのかもしれないという嬉しさを思い起こさせます。
相田の二首目では、「いくと」で落雪に関する特別な発見を教えてくれる期待を抱き、下句でそれが裏切られます。「他の音まで大きく響く」のは落雪の音だけを聞きたい人にとっては失敗でしょう。けれども、失敗も含めて私に教えてくれたことは嬉しく思います。
なんとなく読者としての気持ちが見えてきました。短歌にしたならば、その人にとっては大事なことなのだろう。大事なことを共有してくれると嬉しい。それがとりとめのない事象であればあるほど嬉しくなる。このような機序で、私は「平なる心」の歌に魅力を感じているようです。だから、誰もが共有したくなるような事象を描かれると、私は逆に辟易してしまいます。誰でもよかったのでしょう、と。
「ニューアララギ」は何がニューでどこがアララギなのかに関する議論を惹起する用語として誕生しました。ですから、ニューアララギを新しいリアリズムの看板として掲げるのは困難なことでしょう。私は今回、永井祐からリアリズムの系譜を整理し直しました。願わくは、この二人の歌人が歌集を出した後には、絹川柊佳から語り始められるといいと思っています。いまの口語短歌の評論は、あまりにも実作に遅れています。