言葉の向こう

  4月3日、第46回迢空賞が渡辺松男の歌集『蝶』に決まった。個人的には、心からふさわしいと思える受賞であったことが嬉しい。『蝶』は渡辺の第7歌集にあたり、2004〜06年の未発表歌356首を収めている。これらの作品について渡辺は、〈妻がまだ生きていた頃、私も自分がいずれ筋萎縮性側索硬化症と診断されることになるとは夢にも思っていなかった頃の作です〉とあとがきに綴っている。衝撃的な事実に息を吞むが、作品一首一首はそうした現実が放つ衝撃力とは別な、歌としての稀有な比類なき力に満ちている。

 この歌集については昨年12月に、田中濯が「詩客」HP上の短歌時評に「短歌と病」と題して論じている(2011年12月16日「短歌時評」第30回)。田中は逡巡しながらも、この時期ゆっくり進行していたと思われる渡辺のもう一つの病(統合失調症)に踏み込んだ上で、その病が体感させる「異界」を〈膨大な知的労力をもって、かの世界をこちらがわの言葉に翻訳し、なおかつポエジーを発散させる短歌のかたちで表現する天才〉と評価している。真摯な踏み込みがつかみ得た論考であろう。

 歌人の作歌志向にもよるが、おおむね短歌は作者その人の境涯を色濃く滲ませる。その場合、読み手はその境涯をふまえた上で、歌の言葉、表現につき従い読んでいく。病む人の歌であれば、病が表現上にどんな現れ方をしているのか、自らの感覚や身体をていねいに寄り添わせながら表現をたどる必要がある。それが、歌のなかに深く降りるための手続きであろう。時にきびしい体験や深刻な病は、読み手という他者にそうした歌への降下をためらわせる。一方で、その苦しみに作品評価とは別次元のシンパシーを抱くことによって、読みを止めてしまう。そうやって評価の埒外に置かれる歌は、少なくない。スルーしていいのか。田中の渾身の「読み」からはまた、そんな声も聞こえてくるのである。

 そうではあるのだが、私は実は『蝶』を初読した際、渡辺についてあとがきに書かれている以上のことを知らなかった。知らずに読んで深い感銘を受けていた。つまり、「統合失調症」という〈踏み台〉を置かずとも、渡辺の歌は私にとって〈ただ遠くで眺めていただけ、ただ「なんだか凄い」としか捉えられなかった〉わけではなかったことになる。私は、なぜ私にとってそうだったのか、その理由を知りたいと思って書いてみているのである。

                    〈 〉内は、田中濯の短歌時評からの引用を示す

 

                  *

 

 『蝶』という歌集はまず、章の立て方が歌一首一首の自律性を非常によく高めているように思う。例えば「はと」の章には、以下の四首が並ぶ。

 

  なるやうにしかならぬとはほんたうか啼く鳩を啼かざる鳩が見てをり

  もうひとりあけがたの木に啼く鳩のほの白みたるあたりがわれか

  とどかざるこゑみづからへもどりくるせつなさよ明けの山鳩のこゑ

  山鳩のでいでいぽぽと啼くこゑのあけがたはみえぬ巡礼のゆく

 

 この四首が、「はと」という題詠的な作歌によってまとまってできたものなのか、ばらばらに作られていたものが歌集編集に際して寄せ集められたのか、そこはわからない。しかし、この歌集の他の章に並ぶ作品と合わせて何度も読んでいくうちに、この「鳩」は、ある日ある時の作者の、二度とはない一度きりの「時間」の同行者として詠まれているのではないか、と思われてくる。

 例えば、一首目の「なるやうにしかならぬとはほんたうか」には、なるようにしかならない、という世の理を受け入れられない自分との、痛苦に満ちた対話の時間が現れる。下句「啼く鳩を啼かざる鳩が見てをり」は、自分にいま見えている「鳩」に啼くものと啼かないものがいる、啼かないものは啼くものを見ているよ、と言っている。上と下とを照応させて何か言おうとしているのではない。作者の苦しい思考の時間のなかに鳩たちが降り立っていて、一羽一羽のあるべき振る舞いをしているのである。そこに時間がふくらんでくる。二首目、三首目、抽象的な思考が、一羽一羽、という具体につかまって溶解していく。存在や時間の境界を出入り自由になった「われ」と鳩とが啼き、木に行き、存在への根源的な問いや思いを受け渡しする。一首一首は、その受け渡しのありさまによって時間をおし広げふくらませながら、四首全体では、ひとときという時間に実に不思議なデフォルメが生まれている。この鳩との時間の、たゆたう波のような、或いは溜まりのような沼のような、しかしまるで祈りのようにも佇んでいた時間をこそ、渡辺はうたい取ろうとしているのではないか。私は、こうした歌に恩寵のようなものを感じて深くものを思うのである。

 

                  *

 

  われごくり水のみしとき浅間山大きく虚空へ伸縮したり

  さへづりの中あゆみつつどこまでもさへづりあれば吾はうごく虹

  くも浮けばその雲あふぐわれにして胸のなか白く朴もひらきぬ

  しづかなるごご目薬をさしをへてあたらしきしづけさに入りゆく

 

 もう一つ、渡辺の歌の越境性に着目したい。先に見た「鳩」とのように、作者が境界を越えてさまざまな存在と行き来する、ということもそうだが、加えて読み手が渡辺の歌によって越境させられる、そんな力の存在に驚く。上記の一首目。自分が水を飲み下す、そのときの身体の感覚を「浅間山」が表現してくれているかのごとき詠みぶりが面白い。そして「浅間山」がうぐっと水を飲む込む、その大きなガタイを伸縮させるさまがなぜかありありと思い描けてしまう。「ごくり」と「大きく虚空へ伸縮したり」が同一主体の動作のごとき重なり方をする不思議さ。二首目、鳥の「さへづり」に陶然となる心身のその表現のかたちが「虹」なのだ。陶然となって、自分の肉体だとか存在だとかどっかへ行ってしまって気分そのものになって、どこまでもどこまでも「さへづり」があれば歩くよ「うごく虹」だよ…。読むうちに、その「さへづり」のこの世のものでないような美しい聞こえと、それを歓び讃えようとする心そのものに存在を委ねていく人との、楽園のようなところにたどり着く。言葉に乗ってワープするごとく。また例えば、三首目の、あおぎたくなるような「雲」の下、四首目の「あたらしきしづけさ」への入り口。読み手の私がいつの間にかそこに居るかのような感覚になるのは、なぜなのだろう。

 渡辺の歌では文語旧かなが多く平仮名で綴られ、平たい言葉や人によってはやや幼いと思われるようなオノマトペ、そうした言葉のリフレインが多用される。一首のなかに置かれる言葉の数は少なく、それらが意味をかちっかちっと立てていくようには働かない。もともとが限られた言葉数によって言外のものを多く含む詩型が、渡辺の歌ではさらに一語一語の担うもの含むものを大きくしている。加えて、平仮名や単純でたいらかな言葉のゆっくりとした運ばれ方が、読み手をずっと先の思わぬところにまで連れ出してくれる。意味にではなく、言葉に運ばれて、言葉の向こうにある「さへづり」や「しづけさ」に包まれるのである。作歌にあたっては、「さへづり」や「しづけさ」といった、言葉で言い取って接してはこぼれ落ちるものをもつ対象に向けて、いかに存在をとき放ち言葉による言葉を越えた表現を紡げるか。そんなことを渡辺の歌からつくづく考えさせられるのである。

 

                  *

 

 歌集『蝶』の終盤には、癌を病んだ妻が歌われている。このあたりの歌には心がふさがってしまって、鼻の奥がつうんと痛くなる。

 

  ねむるきみ緑陰つくる樹のやうにうごかぬはおほきなことをしてゐる

  眠るきみ麦穂波ゆめみてはゐむわうごんのなかからだは走れ

 

 ひとときでも、穏やかな眠りが「きみ」にあったのだろうか。「緑陰つくる樹」「うごかぬはおほきなことをしてゐる」から、眠りの静けさ、安らかな空気が感じられ、それを祝福するごとき心で看ている人の息づかいが、ついそこに聞こえてくる。「わうごんのなかからだは走れ」。肉体を病み命を削られゆく人への、こんなに美しくはげしい祈りの言葉を私は知らない。

 言葉は届くのか。このところ、そんなことをしきりに思っていた私に、渡辺松男の『蝶』は深く静かに、人は言葉に届けられることもある、ということを教えてくれたのであった。