息苦しさ

  月刊「うた新聞」7月号の一面に注目した。巻頭評論、吉川宏志の「行為をとおして歌う—脱原発の歌」である。以下、文章のポイントを〈 〉で引用することをお許し願いたい。できれば全文を読んでもらいたい。

 同評論は、4月29日、京都の関西電力前の座り込みに参加した、という書き出しから始まり、全体のおよそ1/3くらいまでが、脱原発デモ参加記のような内容になっている。そこから論は〈現在はまだ、デモに行くのは特異な行為のように見られているが、そうではなく、普通の人が普通に参加すればいいものなのである。あえて言えば、岸上大作のように悲壮にならなくていい。日常の延長に、政治的な行為がある。そのように認識を変えていくことが、いま必要なのではないか〉と説き、さらに、メディアでは伝えられない現場のリアルの大切さを説く。〈その場に行って、さまざまな人と話をすることで、初めて見えてくるものがある。テレビなどを見ているうちに作られていた思い込みが、揺さぶられたり崩れたりする〉という。そして、科学技術やエネルギー問題に関するナショナリズムを考察しながら、日本における原発の必要性を否定して締めくくられる。〈もちろん、科学技術もエネルギーも大切なものだ。ただ、それが内包する危険性に、私たちはもっと警戒すべきだろう。困難な道だが、短歌や評論によって、それを批判していくことも、歌人には求められると思う〉。これが結びの段落全文である。

 まず短歌の評論というにはどこか不思議な風情の文章であり、そこに違和感を覚える。この文章全体を覆う、うすら明るいポジティブ感はなんなのだろう。通常の評論から得られるものとは、あきらかに後味が違う。論の運びに大口玲子の歌〈「福島の人はいませんか(福島でなければニュースにならない)」と言はる〉や清原日出夫の歌〈不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌〉を引いてはいるが、メディアへの怒りや現場の臨場感の大切さを言うのに、それを補完するような引き方にも見える。第一、大口のこの一首は大口が数々詠んできたすぐれた震災詠のなかでは、さしていい歌とは思えない。清原の一首は今さら…? という感じ。

 思い切って言う。この文章を評論としては私は評価できない。吉川個人の、今現在の活動方針や表現意図を広く周知せしめる「マニフェスト」だ、と言われればむしろ納得する。風情も含めて、そういう文章のように感じる。であれば、ふーむ、なるほどね、吉川さんはそう考えてるわけね、などといって読める内容も、歌人として同じ歌人に呼びかけ啓発しようとするかのような調子を呈しているところのあるのが、煩わしいのである。

 ただこの文章の核には大切な問いがある。吉川はこれまで自然や風景を愛し、歌ってきた。自然のなかで採れる野菜や魚を食べるのも大好きだと。〈しかし、原発事故はそうした生命のつながりを破壊する〉。そして、今もなお原発を続けようとする人々には賛成できないし、非常に恐ろしいと思う、と書く。〈短歌は社会的なメッセージを伝えるための器ではない。私はずっとそう考えてきたし、今もその考えは変わっていない。ただ、身体に根ざした怒りや不安を歌っていくことは大切なのではないか、と感じている。〉

 原発問題は命に直接かかわる問題であること。自分の身体に根ざす怒りや不安を歌うことは大切であること。そうした身体や皮膚に感じるものを表現するときに、短歌は詩型の力をよく発揮する。わかるところである。しかしながら、その表現の方向性はいろいろであろう。原発災害に対する人の反応は、不安や怒りのみならず、悲哀、沈思、虚脱、佇立、留保や逃避など、今という空間のなかでの現れとして決して一様ではない。そこに、「短歌や評論によって批判していくことも歌人には求められると思う」と言われてしまうと、空間がにわかに閉ざされたものになってしまう。そこに居ることはかなり息苦しい。

(あくまで被ばく量のきわめて高い地域以外のこととして書いている。なるべく被ばくを防いでもらうための言葉、表現の大切さは別の問題であろう)

 

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 今、短歌の空間でこの手の意見を発するのは相当にためらわれる。かといって触れ方が淡かったりまったく触れなかったりする発言は、ほとんど今耳を貸す価値のない牧歌的言説としてスルーされる。最近の時評が面白くない、という意見をよく聞くが、求められる「面白さ」が変質してしまったのである(こういう時代の空気の摑み方もどうなのか、と思うが)。つまりは、原発問題が命に直接かかわる問題であることが、倫理観を浮上させるのであろうか。先日若い歌人たちと話していたら、むしろ「倫理」が大事なんだ、という強い言葉もあって驚く。だがそこに短歌作品を置けば、肯定か否定か、という二者択一の世界になってしまう気もするのである。

 6月の終わりに、大口玲子の第四歌集『トリサンナイタ』が出ている。今年の歌集のなかでは屈指の歌集であろう。さまざまな読解や評価が出てくるのを、楽しみにしたい。ただ一つだけ。同歌集が今の空気のなかでどう読まれるのかが、気にかかる。仙台で暮らしていた大口は、東日本大震災で被災。幼い子を連れて宮崎へ避難、移住している。同歌集の第Ⅲ部にまとめられた百数十首が、その間の作品に当たる。ここへの評価が、肯定か否定か、二者択一的な裁断になりはしないか、という懸念である。

 実際に大口のこれらの作品は短歌総合誌で発表された当初から、さまざまに言われてきている。最近では「京大短歌」18号の座談会(2011年に感じたこと/大辻隆弘、藪内亮輔、大森静佳)でも大口の作品が話題になった。「震災における立ち位置について」の話のなか、当事者性とは何か、原発事故はこれまでの災害とはカテゴリーが違うのではないか、などと意見を交わしていく。以下、大口の作品を最初に掲出し、その作品に関する発言を少し書き写してみる。

 

  〈許可車両のみの高速道路からわれが捨てゆく東北を見つ〉

大辻 …「われが捨てゆく東北を見つ」って大口さんは自分で言うんやな。この歌は、二癖も三癖もあって。要するに、大口さんは「私は東北を捨てる側の人間だ」と言っているんやな。大口さんの第二歌集は『東北』やん。東北というものを自分のバックボーンとして第二歌集を詠ったわけやろ。それを易々と捨てていく。それはやっぱりちょっと卑怯でしょ。裏切りとまでは言わないけど。…

 

 部分だけを抽出したことできつく見えるかもしれないが、大辻の発言もかなりの勇気をもって踏み込んだものだとわかる。しかし、それが作品ではなく、歌人その人の倫理やモラルを問う方向へ踏み込んでいるのが気になるのである。 

 もっとダイレクトに、東北在住の歌人からの、直接に大口やその他の移住者を指差すような論もあったが、私は個人的には、原発事故からの避難、移住の選択は、個々のぎりぎりいっぱいの「危機管理」なのだと思っている。何者も誰ひとり守ってくれないことがこれだけ明白である以上、自分たちで危機管理するしかない。シビアな状況なのである。まったくの未知の、モデルケースひとつない緊急的な個人行動には、言い難い苦労や痛みが伴ったであろう。ただこの「危機」が危機とは直接に肌身で認識し難いこと、認識する指標すら定まっていないことが、人々のそれに対する態度と評価を分ける。さらに、危機管理能力は本来、人間の格差とは関係がないはずなのだが、その遂行の度合いが複雑に他の人々の環境や心理と絡み合って受け取られ、人と人とを隔ててしまう。ここにもまた空気の薄さを感じて、息苦しくなってしまうのだ。

 

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 例えば、身体に感じる不安を、社会やシステムや圧力に向けて発信し詠んでいく、ということが、この未曾有の原発災害が人間にもたらした底の知れない惨を、かえって小さく矮小化してしまう場合もある、そういうおそれはないのか。また例えば、倫理をもって作品を裁断していくことは、短歌における人と人との分断につながらないのか。それはひいては、人間や言葉や歌を痩せさせていくことになりはしないのか。答えがなかなか見つからないのだが。

 だからと言って、何もしないよりはいろんなことをしてみる方がいい。とらえ難さ、深刻さにまともに向き合うところからでも。まだ原発事故は終わっていないし、これから気の遠くなるような時間をかけて人間が始末をつけていかねばならない。日常を押しやってどうにかしようとするのでなく、そういう日常を生きねばならない、それをどう日常として歌っていくか、なのではないか。