なみの 亜子


歌の力

 8月6日の産經新聞「倉橋健一の文学教室38」が印象に残っている。石原吉郎の最初の全集である『日常への強制』を紹介し、ラーゲリ(強制収容所)での過酷な体験をもつ詩人の〈極限状態の孤立した声〉を読み直す記事である。なかで最も興味深かったのは、学生運動の嵐が吹き荒れた1960年代後半、その若者たちに石原の詩はどう読まれたのかを記した部分。少し長くなるが引用させてもらう。

 

 …たとえば、昨年5月に70歳で亡くなった詩人の清水昶(あきら)は同志社大の学生だったころ、石原の詩に出会った衝撃をこんな言葉で書き残しています。

 《デカダンスな青年たちの溜まり場と化していた文学サークルの部屋の壁にこの「位置」という詩をはりつけ、夕陽の射し込む窓ぎわで、ぼんやり眺め入っていたのを覚えている。わたしは動こうとしていた。変革の理論を踏まえて、はげしい動きの果てに「位置」を求めようと願っていた。》

 ただ、石原が自分の詩の背景を語るかたちで自らのラーゲリ体験をエッセーにして発表し始めるのは、帰国から15年以上が経過してからのこと。だからこのときの清水は、石原の背景にあったこの事実を知らないまま詩の力だけに打ちのめされていたということです。ここはとても重要で、読み手の創造力によって作品が自在に読み換えられていく、そんな力を石原の詩は持ち得ていたということです。…

                   「産経新聞」2012年8月6日より

 

 清水が文学サークルの部屋の壁にはりつけたという「位置」は、《しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ》で始まる。私も若い頃、一読雷に打たれたような衝撃を受け、ほとんど諳んじるほどに虜になった一編だ。「現代詩手帖」か何かをたまたまパラパラしていて出会った。それだけの出会いでなぜ虜になったのか。倉橋の言う〈詩の力だけに打ちのめされていた〉に違いなく、その力は人生の感触までもはっきりと変えてしまった。その頃の自分は、世の中への適応できなさにやさぐれていたのだったが(今もあんまりそこは進歩がない…)、石原の詩の言葉を、自分はもっと撓め、撓んで撓んでおのれの位置をそこにこそとるのだ、と読んだ。そう読んで、のっぺりとしていた世界に、いきなり黒々とした隈を抱えた隆起があらわれるのを感じた。先に引いた文章で倉橋の言う、〈読み手の創造力によって作品が自在に読み換えられていく、そんな力を石原の詩は持ち得ていた〉という指摘には、そんな我が身をかえりみて身体ごとはっとするのである。

 読み手の創造性を刺激し発動させる詩の力。詩という形式では、一つひとつの言葉が言葉としての屹立性をたもちつつ、まっすぐに読む者を射る。そこに情報や文脈が挟み込まれる隙間がない。言葉が読み手を直になまに動かすということなのかもしれない。では、短詩でもある歌の言葉はどうか。

 

                  *

 

  カーテンのむかうは静かな月夜なり月のひかりにぬれつつ眠る

  縁先(えんさき)にきーんと光れるメヒシバがそれでいいんだよよくやつ たと言ふ

  茗荷の花こんなにうすい花だつた月の光もひるんでしまふ

  

 歌の言葉は、もっとずっとおだやかだ。詩のように詩の外側へ読者へと向かってくるのではなく、むしろ詩の内側へ、詠まれたモノやコトの内奥へ、内奥に佇む作者その人をそおっと立ち上げていく方向へ、言葉と言葉が手をとり合うようにして動いていく。歌が歌自身のなかに奥行きをひらいていくのに言葉が力を合わせる。そういう詩型のようにも思える。 

 引いた歌の一首目、例えば「カーテンのむかうは」という詠み出しがすでに、カーテンから離れたところで、さらにカーテンの向こう側にあるものとして感じている外界、そこへのまなざしの届けようを最小限の言葉であらわしているように思う。横たわっているか、すたすたと歩いていってカーテンをあけることがはばかられる、かなわない、そういう状況の人がカーテン越しに世界を感じ取ろうとしているのだ。その布を通して届く月明かりや気配から、「静かな月夜なり」と感じている。その心のおもむきも印象深い。そして作者は「月のひかりにぬれつつ」眠るよ、という。わずかでも布越しにでも、自分が心を向けた月からの光が届く。その「月のひかり」に「ぬれつつ」という身体による感覚表現が、歌のなかに暗みをもった人の身体をしっとりとあらわしていく。言葉と言葉の連なりが立ち上げていくものの起伏の富み方に、改めて驚く。

 これらの歌には、どこにも際立つ言葉が使われていない。この言葉のありようの平らかさ、明るさ、澄み方は、現代短歌のなかでも屈指の言葉の使い手ならではのものではあるが、私たちがよく使い込んだ身内のような言葉が連れ合いながら、「月夜」や「月のひかり」というものの感じられ方をあたらしく、深くしてくれる。詩のような〈読み手の創造力によって作品が自在に読み換えられていく〉という力ではないが、歌には読み手の「想像力」をふくらませ日常や世界への感受性、感じられ方見え方を更新する力があるのかもしれない。読み手を直に動かす力ではなく、読み手をゆっくりと深める力というか。これも、歌の言葉一つひとつについていく、という向き合い方があってかなうことであろう。

 

                  *

 

 先の三首は、河野裕子の遺歌集『蟬声』から引いた。河野は2010年8月12日に亡くなっており、同歌集はそのほぼ一年後、夫である歌人・永田和宏ら家族の手によって集められ出版されている。河野の最期の日々と作歌活動は、新聞のリレーエッセイというかたちでリアルタイムに掲載されていた。そして河野の死後も続々と関連書籍が出され、またドキュメンタリー番組が生前録音された肉声とともに放映されるなど、常に話題を呼び続けている。さらにこの7月には、永田和宏が「波」に連載(2011年6月号〜2012年5月号)した、河野の闘病生活や最期の日々を綴った文章が、『歌に私は泣くだらう/妻・河野裕子 闘病の十年』として一冊にまとめられた。ここでは、河野や永田自身の作品を引きながら、家族にどんな出来事や想いがあって生まれた歌かも綴られていて、私のように間近に河野やその家族を知る者にはことのほか、大切な記録にもなっている。

 しかしながら。河野を巡るこうしたたくさんの散文が、河野裕子の歌を歌として、一首一首の言葉一つひとつについていくことを難しくしてはいないだろうか。癌、闘病、精神的危機、家族の葛藤、ついに歌人としてまっとうした最期の日々、そうした情報や文脈が、河野の後年の歌への読者の向き合い方に影響を及ぼさないのか。余計なお世話であろうが、私は気になって仕方がない。歌という詩型には、ともすれば作者の境遇や物語をも容易に巻き込んで、同じ見た目の言葉のその中身を、微妙に変質させてしまうところがあるようにも思うのだ。見た目とは裏腹に、言葉数の少なさが言葉自体にまといやすさを備えさせるのであろう。

 先に引いた三首の、例えば「メヒシバ」という雑草の類いまれな存在感の立たせ方、その草のもっている「感じ」の話し言葉による動かし方。また「茗荷の花」の本当にうす布のような柔らかさ薄さ、その色合いのはかなさや質感の再現性の巧みさ。なんでもない草や花があらたな容貌をもってこの世にそよぎ、そのそよぎは生もつものすべての傍らにあるのだ、ということに気づかされる。しかしこれが病や死の影、天才歌人の最後という文脈に巻き込まれれば、歌は河野の境遇ならではの感慨、絶唱としてそよぐ範囲を逆に小さくしてしまいかねない。「それでいいんだよよくやつた」と「メヒシバ」のような草が「きーんと」光って言った、とただそう読むだけで、読み手は命の奥行きに出会っているのである。

 もう少しだけ、時間が欲しかったのだ。河野の後年の歌一首一首と、ただその歌の力だけに打たれ深められる時間が。河野の歌はそれだけの力をもった作品であることに紛れなく、誰の作品にもそういう力がある、というわけでは決してない。その後に、歌の背景や現場を知って作品としての読解へと降りていく。そういう手順を踏みたかった、と思う。天性のスター性が招いた現象でもあるのだろう。存在感の大きさが時に作品を凌いでしまうのかもしれない。人の心の方に物語を求めるものがあるのも確かだ。

 8月12日。河野裕子の亡くなった日がまた巡ってくる。河野の後年の作品がどんなところへ到達していたのか、まだ平静な心で読み解かれたものが出てきていない。物語から離れて。何度目か、また『蟬声』を読み始めている。

 

  日向の中を出で入る影はわがこころキンポウゲたちこちらをお向き

                          河野裕子『蟬声』