なみの 亜子


鑑賞力

大阪市の橋下徹市長が財団法人文楽協会への補助金凍結の意向を表明し、物議を醸している。来月の中旬には問題の山場を迎えるというが、個人的にはここに至るまでの橋下的価値観と文楽に代表される日本の伝統芸との、あまりのわかり合えなさにいろいろと思うところがある。短歌だって橋下的に言えば、もっと現代風にアレンジできないのか、昔ながらの定型を守らないといけないのか、結句があっさりし過ぎ、とか言われかねない。不朽の名作とされる歌集だって、もう二度目は読まない、と言われかねない。恐らく、日本の芸事の長い歴史や伝統を負った「型」の価値それ自体が、価値とは認め難いものになりつつあるのではないか。

 「型」のあるものには「型」をふまえた見方、読み方、味わい方があり、そこから奥へ入って初めてまっとうな鑑賞がかなう。先人たちが長い時間をかけて磨きあげてきた「型」をどう身につけこなし、そこに今を生きる表現者としてどう新たな風を吹き込んでいるのか。見所、味わい所は一見同じに見える「型」の奥行きに分け入ってこそ、見出すことができるのだろう。「型」はその鑑賞側に、その「型」なりの目利きであることを求めるのである。

 だが時代感覚や生活様式の様変わりによって、古い時代に成った「型」を支える共通認識が解体しつつある。加えてここに、戦後日本のこれまでの経済や産業技術の発展に裏打ちされてきた進化論的価値観を見るのは、的外れだろうか。コンピューターのバージョンアップや携帯電話の機能がいい例である。新しく出るものほどその前の課題を克服している。昔のものは今のに比べて劣っているに決まっている、という理解の仕方も出てくる。

 いつかの新聞で大学の教授だったか、若い人たちと歴史を学んでいると彼らは「昔の人なのにすごい」と言うが、そうではない、「昔の人だからすごい」のに…といった内容のコラムを書いていて印象に残っている。今現在はすべて過去を更新したものとしてある、というような感覚のありようは、人間をどんなふうにしていくのか。芸術や表現を見る場合で言えば、そのジャンルの歴史や時代性を視野に入れない、理解するほどの価値をみとめない、ということになる。それは真っ当な鑑賞の死を意味する。真っ当な鑑賞を失ったジャンルは、いずれジャンルとして立っているのが難しくなるだろう。

 

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…働きかけなければ読んでもらえないって前提の受け入れに抵抗があるんです。道を歩いてる人に好きな小説を五つ挙げてくださいとか、今まで見た映画で好きな映画を五つ挙げてくださいと言ったらみんな答えられる。短歌もそうであって欲しい。

…だから僕、それが消費の問題だと言って片付けることはできなくて、やはりジャンルの吸引力や他者からみた魅力の問題だということをはっきりさせないといけないのではないかなと思うんだけど。

 

 『短歌研究』2009年2月号の対談「短歌の未来を語ろう!!」(穂村弘vs 吉川宏志)から引いた。上記はそのなかの穂村弘の発言である。短歌が「読んでもらえない」ジャンルであることへの危機感や、短歌における「吸引力」や「魅力」の見出し難さを指摘する意見に頷きながら読んだ覚えがあって、取り出してきた。視覚・聴覚に訴える表現とは違い、短歌はただ言葉のみでなされる表現であることの、回路の小ささ。そこに定型があってどれも見た目は同じように見える。言語表現の他ジャンルから見ても、相当にマニアックな印象だろう。対談相手の吉川は逆に、そこにこそこの詩型の奥深さ、豊かさを見ようとする。

 

…短歌というのは、読んでも瞬間的にはわからないもののほうが多いとは思いません? すぐわかるものだけを追ってしまうと本当に虚しくなってしまう詩型だと思うんです。

…その瞬間に受けるということを強迫的に追い求める時代になってしまっている。けれども短歌は、それだけだと痩せ細ってしまうのではないかと感じますね。

 

 上に引いたような吉川の発言もまた、全体に鑑賞力の弱ってきた時代を見通しているところがあって頷いてしまう。やはり短歌には短歌なりの鑑賞が必要なのだ。結局短歌は近年、穂村と吉川の間を行ったり来たりしている気もするのだが、振れたところでこの範囲を大きく逸脱しない。古いジャンルにはまた、それだけの強い自制力がある、ということも改めて思う。

 

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  窓の外ばかりが夏になつてゐてわれは電話に出たりしてゐる

  人の世の夕暮れゆゑかスーパーの荒川さんがこころに沁みる

  いつまでも俺は川だと言ひながら渡良瀬川が夜をさえぎる

                     田村元『北二十二条西七丁目』

 

  粉雪のひとつひとつが魚へと変はる濡れたる睫毛のうへで

  風がさらふ雪を見ながら抱き合つたdocomoショップの光を浴びて

  月暈のかすかに揺らぐその下を氷湖は小さき渦を抱きて

                  山田航『さよならバグ・チルドレン』

 

 近刊の第一歌集二冊から、三首ずつ引いた。田村は1977年生まれ。山田は1983年生まれ。どちらも抒情性の行き渡った、読み進めるのが楽しい歌集だった。最近の流れとしては口語を基調としながら、時にふっと文語調が混じってくる。そういう文体に旧かな遣いでくるのも昨今の流れだが、これによって不思議なふわっと感が醸し出されて、感触がやさしいというか、独特の感じの良さがあるというか。

 作品の質は、今の短歌界の鑑賞力を反映しているのだろう。難解さにはね返されることなく寄りついていけるし、表現の微妙さを味わうという楽しみもある。とっつきにくくはなくなった。かといって大衆迎合には走っていない。時代に揺さぶられやすいジャンルは、逆に強いのかもしれない。現代において伝統芸や古典的表現に携わるとはどういうことか。自問できるジャンルは鑑賞力を失わない、ということなのだろう。文楽もしかりなのだと思う。

 短歌ではいま、若い人たちの活躍が目立っている。その活躍が上の世代と切れたものではないか、更新者感覚が勝っていないか、見ていくべきはそこだろう。伝統と改革ではなく、伝統と伝統の今、という連続性が大切なジャンルでもあるのだ。