ブックオフの105円コーナーで太宰治の文庫本を二冊買ってきた。新潮文庫の『惜別』と『お伽草紙』である。『惜別』には「右大臣実朝」と「惜別」という長編(現在の感覚では中篇だが)二作品。『お伽草紙』には評価の高い「カチカチ山」を含む「お伽草紙」シリーズ四作品、「新釈諸国噺」には井原西鶴の作品をベースにした短編十二作品、他に「葛原勾当日記」を太宰流にアレンジした「盲人独笑」、「聊斎志異」を下敷きにした「清貧譚」、「竹青」といった太平洋戦争中に書かれた作品がコンパクトにまとめられていて、読み応えがあった。
太宰治の小説は、高校時代に図書室にあった太宰治作品集的な選集を、ぜんぶ読んだ記憶があったので、勝手に自分の中の太宰の評価は決めてしまっていたのだが、今回、上記の作品を、ほぼ四十数年ぶりに再読してみると、これほど技巧的で奥深い小説が、たかが、高校生に理解できたはずがないと、あらためて反省した。
たしかに記憶に残っているものといえば、長編では『斜陽』と『人間失格』とあとはせいぜい『津軽』。短編では処女出版の『晩年』の諸作品、他には「走れメロス」、「駈込み訴へ」、「女生徒」、「ヴィヨンの妻」、「桜桃」くらいであろうか。
こう並べてみても、「ヴィヨンの妻」や「桜桃」が、17歳くらいの私に真に理解できたはずはないことが、今ならわかる。
今回の再読でいちばん心うたれたのは「右大臣実朝」である。若き源実朝のどうしようもないニヒリズムを、端麗な文章とモノガタリの展開で、よくもこれだけ書きおおせたものだと思う。しかも、戦争の最中の昭和十八年にである。
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチニハマダ滅亡セヌ」
右大臣実朝の口を借りて語られるこのペシミスティックな箴言は、作品刊行後七十年を経た今日、何かいっそう心の深い部分に染みとおってくるような気がする。
日本文学史上のエピソードとして有名な話だが、昭和十年の第一回芥川賞の候補に太宰治はなっている。候補作は『晩年』に収録されていた「逆行」と「道化の華」である。同時に候補になっていた作家と作品は石川達三「蒼氓」、外村繁「草筏」、高見順「故旧忘れ得べき」、衣巻省三「けしかけられた男」等である。そして、晴れの第一回芥川賞受賞作品として選ばれたのは石川達三の「蒼氓」であった。太宰治の痛恨の思いは想像できる。
もちろん石川達三は社会派の作家として、現在でも日本文学史上に残る作家ではあるが、第一回芥川龍之介賞受賞者としてみると、私には違和感を禁じえない。
ちなみにこの時、川端康成は太宰治に対して下記のような選評を書いている。
「この二作(引用者注:「逆行」と「道化の華」)は一見別人の如く、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」
これに対して太宰治は激怒して、「川端康成へ」と題した文章を発表する。(この文章は新潮文庫の『もの思う葦』に収録されている。)一部を引用する。
「あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。―なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあった。」おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。」
このような書き出して、以下、「道化の華」を書いた頃の無頼な生活の事情や親族に借金を申し込んだり、盲腸の手術が遅れて死にかけたりした身辺の騒ぎが語られる。そして、文章の最後は次のように結ばれている。
「私はいま、あなたと智恵くらべをしようとしているのではありません。私は、あなたのあの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅いだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑む。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない」
感情的でもあり、当時の文壇事情を皮肉った内容でもあるのでわかりにくいかもしれないが、太宰のくやしさと、芥川龍之介の冠がついた賞には、自分こそがふさわしいとの強烈でせつない自負が行間からにじみ出ているようには思う。「芥川龍之介には少し可哀そうには思ったが」や「石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている」といったあたりには、歯軋りの音が聞こえるようでもある。
もちろんこのあと、太宰治はさのざまな小説を書き、いくつかの作品は今でも読み継がれている。「お伽草紙」のような元ネタのあるものを、自分流の逆説的な解釈でリメイクしてみせる手法や、その中での「惚れたが悪いか」との狸の悲壮な末期の言葉など、アフォリズムを好んで書いた芥川龍之介ときわめて資質が似ていることは、作品が証明している。
言ってせんないことではあるが、太宰治の名前が第一回目の受賞者として記録されていれば、確かに芥川龍之介の文学的資質を継いでいる、とてもふさわしい受賞者が第一回目には選ばれたのだなあと、もっと納得できるような気がするのである。
短歌の世界にも先人の名を冠した賞がいくつもある。今後、それらの賞の受賞者一覧をながめたりする時、太宰治のこのエピソードを思い出すことになりそうだ。
名をなさず死ぬ歌びとを憐れ見て辛夷の花は夜ごと散るべし 米口實
米口實氏の遺歌集となってしまった『惜命』の巻尾に置かれた作品である。帯にもこの一首が採られているので、米口氏自身もとりわけ思いの深い歌だったにちがいない。私達の大半は「名もなさず死ぬ歌びと」である。太宰治のように、何の賞も受けることができなかったにもかかわらず、死後も多くの読者に恵まれるということもありえない。
この歌集の後記の日付は2013年1月9日、そして米口實氏が亡くなられたのが1月15日、まさにタイトルどおり「命を惜しむ」思いでつくられた歌集であろう。
後記はわずか4ページだが、中学生の時に朝日新聞に短歌を投稿し始めて、やがて、「多磨」に入会し、滝口英子、安立スハルといった俊英との出会い。学徒出陣による応召と、結核療養による帰郷、戦後の木俣修への師事と反発、そして理想の文学を追求しての「眩」の創刊、さらには近年の肺癌の罹患といった歌人的履歴が簡潔に記されてある。そしてその中に、次のような一節がある。
「私は五十を過ぎてから歌集を出すことを認められて歌集『青葉かがやく』を出した。序文を頂いた御礼を申し上げるために妻を連れて上京し(引用者注・木俣修氏の)広壮なお屋敷に参上した。その帰路、妻があまりにも不機嫌なのでどうしたとただすと、「私は貴方のあんなにも卑屈な態度を見たことがないわ」と言うのだった。私は粛然とその言葉に鞭打たれていた。」
前記の太宰治の言葉と同様に、私には一読、心に重くわだかまるエピソードであった。
「眩」を創刊して後、誌上での米口實氏の論作は、歌壇的挨拶などまったくない、峻烈きわまりない、胸のすくものばかりであった。最終歌集の後期にも書き記さずにはいられなかった上記の痛恨の体験を否定的契機として、その後の活動があったことは言うまでもない。
私達歌人の大半は米口實氏が詠ったように「名をなさず死ぬ」ことになる。それが実際には、その歌人の論作の真の評価によってではないことを、誰もが気づいている。米口實氏の毅然たる文学的姿勢の底流するこの一首は、絶唱として私に突き刺さる。
最後に『惜命』の作品を何首か引いておく。
もう誰が覚えてゐるか棘草(いらくさ)を噛みながら死んでいつたわたしを
身の芯が遠こがらしに鳴るやうな気がして庭の日溜まりゐる
雨に濡れ乞食(こつじき)をして歩みゐき夢は五臓の疲れといふが
ひと恋ふるこころは日々に濃くなりぬ万葉仮名の孤悲といふ文字
枝に来て雌雄は啼けり生まれかはり死にかはりゆくことのさびしさ
なんの誇りもみな無視されて哀れみの視線をあびる 覚悟はよいか
かなしみのよみがへること稀にあり通過せる駅の記憶のやうに
淡くかなしく水のやうなる手触りの千樫の歌を時かけて読む
なほ我は生きてゆくべし体内の死がはらわたを喰ひつくすまで
表現を終へて静まる樅の木の根方に遊ぶ冬の落暉は
読み返すほどに心の深い部分に沈み込んでくる歌である。おだやかな表現の底に、文学としての短歌への志の炎が燃え続けている。
名をなさず死ぬ歌びとを憐れ見て辛夷の花は夜ごと散るべし
「名をなさず死ぬ歌びと」である私やあなたが、三十一文字をもてあそんでいる今夜もまた辛夷の花は散っている。
編集部より:米口實歌集『惜命』はこちら↓
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