藤原 龍一郎


人名・悲哀の装置

内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林刊)が評判になっている。3月2日に文京区区民センターで開催された批評会でも、さまざまな角度から、この歌集が分析され、刺激的な議論がかわされた。

 

  たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく

  日雇いアルバイトの指先がひとつずつケーキに苺を置いてゆく夜

  目覚ましを掛けずに眠りゆくことの至福よふかいところまでゆく

 

 一首目の「うつしとり」という動詞の選択、「わが部屋」ではなく「自室」というこなれない言葉を選択する神経の繊細さ。二首目のワーキングプア的な現状を写しながらも、ロマンティックな心情をもただよわせる視点のありかた。三首目の「至福」という言葉の巧みな使い方と結句の「ふかいところまでゆく」がはらんでいる精神性の陰翳。パネリストからは、これらの歌への言及が多かった。確かに、内山晶太ならではの個性的な感覚が結晶した読み心地の良い作品であるといえる。こういう歌が『窓、その他』の代表作として今後も語り継がれてゆくのかもしれない。

 

 もちろん上記の作品がすぐれていることに異論はないのだが、ここでは、私なりの興味から、批評会ではあまりとりあげられなかった何首かの作品について感想を述べてみたい。

 まず、プロレスを素材にした作品が複数あることに私は注目した。

 

  プロレスを見ざる日々にてオクラホマ・スタンピートを見ることもなし

  レスラーはシャツを破りて瞳孔をひらいてみせる夏の終わりに

  錯乱にほどよく遠くわれはわが髭を剃りたりエル・ソリタリオ

  マリー=クレール・アランそののちバッドニュース・アレンを思い眠らんとすも

 

 一首目は「プロレスを見ざる日々」という導入が、想像力を刺激してくれる。「見ざる日々」ということは、熱心に「プロレスを見ていた日々」が、かつてあったということだろうか。それを単純に「幼き日々」ととらえてもよいかもしれないし、逆に今は生活の悩みが複雑でプロレスを見ている暇などない日々なのだと考えることもできる。下の句の「オクラホマ・スタンピード」というのはプロレスの技の名前。相手をヘッドロックの状態に固めて、そのまま、コーナーから反対側のコーナーへ走って、相手をマットに叩きつける技である。

オクラホマはアメリカ西部の地名でスタンピードは馬や牛の群れがパニック状態になって暴走すること。で、肝心なのはこの技が実は今や古臭い技になってしまっているということなのだ。ジャイアント馬場の全日本プロレスによく招聘されていた殺人医師スティーブ・ウィリアムスがこの技を得意としていた。ウィリアムスは2009年に癌で亡くなっている。と、このようにプロレス豆知識を引用したのは、つまり、内山晶太がプロレスを見ていた日々は、もはや、はるか昔、たぶん二十年以上も前の時代を想定しているはずだと私が思うからなのだ。

 プロレスというややレトロなイメージの中から、さらに古臭い雰囲気のオクラホマ・スタンピードという技名を選び出す。そこには「はるか昔」を感じている内山晶太の意思が働いている。本当はどんな読者もここまで読めればいいのにと思うが、まあ、それは望めない。実はこの一首に関しては、批評会で大松達治さんの発言があり、そこでも「プロレスを見ざる日々」は「過去」というとらえ方をしていた。オクラホマ・スタンピードに関しても、実際の技は知らないがいかにもプロレス的な名称で、過去を思いやる自分の現在の歌として評価されていたように思う。もちろん、その読みでよいわけだ。ただ、この一首の背後には、上記のようなプロレスにまつわるあれこれが存在していて、おそらく作者自身にも、このような心理的な連鎖があったのではないか、いや、あってほしいと私が思ったということである。

  二首目はプロレスラー名は詠い込まれてはいないが、新日本プロレス所属の内藤哲也のことだ。登場時のパフォーマンスを忠実に写している。そのギミックとしてのポーズに「夏の終わりに」というきわめて類型的なワンフレーズを付すことで、華やかさ、力強さがよるべのないさびしさに転化させている。よるべのないさびしさと言ってしまうと、実は内山晶太の歌はどれもこれもそうだということになるかもしれない。ただ、私はそこに魅かれる。

 三首目は、髭を「剃りたり」の「ソリタリ」という音から、メキシカン・レスラーのエル・ソリタリオを連想している。エル・ソリタリオとは太陽仮面の意。上の句の「錯乱にほどよく遠く」は、言わずもがなではあるが、プロレスラーのような錯乱の瞬間から自分はほどよく離れているということ。やはりそこにもさびしさがある。

四首目もアランとアレンの音韻の相似ということで、オルガン奏者のマリ=クレール・アランからプロレスラーのバッドニュース・アレンを呼び出している。アランとアレンを並べてみても、そこに特別の意味はない。ただ、この二人の異分野の人物に興味をもっていた「私」という存在が歌の底にあるだけだ。「眠らんとすも」なる結句にはなんのくふうもないが、マリ=クレール・アラン、バッドニュース・アレンを就眠の呪文として眠りに落ちる男の存在はかなしい。

  大半の読者には読み流されてしまうであろうこのような歌も、読者側が思いいれればこの程度には深読みすることができる。それもまた短歌ならではの読みの楽しみであり、恣意的に過ぎると否定されることではないだろう。 

 次に人名が詠まれた歌を引いてみる。短歌に詠み込まれた人名はその歌の作り手のアキレス腱のようなものだと私は思っている。カラオケの選曲などと同じで、ああ、こういうのが好きなのかと、比較的無防備な世界への嗜好が見えてしまう。

 

  夏過ぎてゆきたる日々を倒れゆく心の中のトミー・クーパー

  にんげんの顔のゆがみを忠実にヨセフ描かるヨセフ物語に

  砂浜をマハトマ・ガンジー走り切るうつつはあらず海藻の散る

  新宿に雨脚しろくメンデルとメンデルスゾーンの違いについて

  金木犀の花は左右より香りたりもんたよしのりの歌をうたえば

  十円玉てのひらに閉じまたひらきくらがりにいる左卜全

  うつくしき庭なりしかど思いかえすターシャの庭は花の爆発

  さようならという言葉かぜにほぐれつつひらかるる清水クーコの笑顔

  陽を受けて揺れる車輛のがらんどう なっちゃんは今テストだろうか

  シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も

  おのずから引き出されゆく追憶に原マルチイノありて寒しも

  うらわかき宮里藍のかがやきに照らされて月のような私だ

  全斗煥がぜんとかんなりしころ曽我町子見ては怯えていたり

  五島くんのシャツの袖口に飛び込みし鮭のかけらの行方しられず

  まばたきに押されてなみだこぼれ出づる北原里英を見たりいくたび

  You Tubeというものあればあるときは若かりし轟二郎みており

  いっぽんの線香花火を持たせたしストコフスキーのうつくしい手に

  エルンスト・ヘフリガーの声さむくひびく洋服の垂れさがる自宅に

 

 これで全部だと思う。プロレスのところで引いたエル・ソリタリオやバッドニュース・アレンやマリ=クレール・アランも人名であるから、かなりの数の人名が読まれているといってよいだろう。

 知っている人名も知らないものもあるが、ここに詠まれているものならば、ネットで検索すれば、ほぼ、わかるだろう。一首一首だと気がつかなかったことが、人名の部分を知ることで、なんらかの共通性に気づいたりすることもあるかもしれない。 

 たとえばマリ=クレール・アラン、バッドニュース・アレンというような音韻上の類似ということでは、四首目のメンデルとメンデルスゾーン、九首目のシートベルトとシューベルトが挙げられる。新宿の雨脚や冬の錯誤という孤立した精神性を感じさせはするが、やや、語呂合わせに引きずられすぎている気もする。

 七首目のターシャとか九首目のなっちゃんとか十四首目の五島くんとかは、名前の雰囲気で、人物像を自由に想像すればよいということか。もっとも、五島くんには「五島諭(一九八一~)歌人。「pool」同人)という注釈がついている。まあ、歌人仲間ということがわかればいいだけで、花園の中のターシャ・テューダーとか小学生の女の子らしいなっちゃんというくらいの想像がつけば一首を受けとめることはできる。

  私が好きなのは一首目のトミー・クーパーと十一首目の原マルチイノ。意外な人名と短歌で出会ったという驚きとともに、この人名を選択した作者の思いに共鳴することができた。トミー・クーパーはイギリスのコメディアン兼マジシャン。日本でいえばゼンジー北京とかマギー司郎とかいった感じだろうか。ネットで検索するとトルコ帽をかぶって太い葉巻をくわえた映像が出てくる。このトミー・クーパーを内山晶太が自分の歌に登場させた理由は、たぶん、その死に方にある。トミー・クーパーは舞台で熱演中に心臓麻痺で死んだのである。観衆は倒れたのも演技だと思い、爆笑と拍手のうちに幕がおりたのだそうだ。ある意味でコメディアン冥利につきる死に方ではあるが、さびしさの極みでもある。

内山が「倒れゆく」と書いたのは、その死にざまを意識しているわけだ。「夏すぎてゆきたる日々を」というのは、作者の自身の青春への惜別のように思える。トミー・クーパーが芸の最中に倒れたように、内山晶太の心の中でも、それに比するべきものが倒れた。宴のあとではなく、宴の唐突な中断。それが倒れゆくトミー・クーパーの像に比喩として重なる。トミー・クーパーという必ずしもポピュラリティがあるわけではない人名を選んだのは、個別性をきわだたせようという自意識とともにはにかみの思いもあったからなのではないか。ここに歌人の繊細な感受性のふるえがある。

 原マルチイノは天正少年遣欧使節の一人。ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見後、帰国して、布教やキリスト経の書籍の翻訳を精力的におこなったが、江戸幕府成立後は、マカオに追放されて、そこで客死する。こういう歴史的な人物にかかわる追憶が「おのずから引き出されゆく」という心理状態にはやはり屈折したものを感じざるをえない。「寒しも」なる結句も常套的ではあるが、こういいたい気持ちもわかる。原マルチイノの人生のディテールに思いを寄せるというよりは、少年遣欧使節という運命の数奇さやハラマルチイノという音感の奇妙さ、せつなさに歌人の心が共鳴しているように思える。追憶という言葉はセンチメンタルであるが、この言葉をつかわずにはいられない、歌人のやむにやまれぬ心情を伝えてもくる。あるいは、原マルチイノは歌人の前世なのか。そのような想像をさせるさりげない歌の構成も、歌人の技術力として評価すべきなのだろう。

 人名に興味がわかなければ、読み過ごされてしまう歌の作り方ではあるが、わかろうとしてくれる人だけに感受してもらえればよいとの思いは、断念と表裏のものである。内山晶太の歌は、そんなにむずかしい感情の綾を表現しようとしてはいない。喜怒哀楽でいえば、その「哀」の表象としてほとんどの作品が成立している。「哀」を読み取ることができなければ、読者として短歌を読む甲斐がないではないか。

  マハトマ・ガンジーももんたよしのりも左卜全も清水クーコも、歌人の内的必然性をもって選択された人名である。知らなければ、ぜひ、検索なりでどんな人物なのか調べてほしい。宮里藍も全斗煥も曽我町子も北原里英も轟二郎もストコフスキーもエルンスト・ヘフリガーも胸いっぱいの悲哀を表象する装置として機能しているはずである。その方法論を私は支持したい。

 もちろん、『窓、その他』という歌集の評価はこれらの歌で語られるべきではない。しかし、これらの歌を読み落として、評価だけが先行してしまうのも、せつなくはある。こういう視点もあるということを、書き留めておく。 

  空中をしずみてゆけるさくらばなひいふうみいよいつ無に還る