藤原 龍一郎


山棲みの今日から明日へ  

 第9回葛原妙子賞が、なみの亜子歌集『バード・バード』に決定した。西吉野という山間地帯に生活の基盤を置いて、自然と共棲する日々から生まれた短歌を集成した一巻ということで、小池光の選評の末尾の「ずっしりと存在感のある歌集である。」というのが、共通の読後感になるのかもしれない。

 はじめからこの地に生まれて、林業に携わっていたわけではなく、移住して一からこの山間での仕事を始め、苦労する日々から詠われた歌であることが、一巻を読み進んで行くと読者にも理解できる。盆栽的な自然ではなく、人間の存在を時に脅かし、また時に親和する圧倒的な自然が詠われているので、一度読み始めると作品に引き込まれ、一気に巻尾まで読ませてしまう力をもった歌集だった。

 

職安なぁてんこ盛りやでおっさんの 帰り来て言うおっさんのひとり

無精髭に白髪あまねき男なりぞりぞりしたいよと言いて頬寄す

かなり真剣に倒産ばんざい と思うことある男は女のもとに在るべし

実のとれる頃にはきっと死んでるねすでに負けつつ植える樹である

 

 歌集の比較的はじめの方にある「倒産ばんざい」という連作からの抄出。一巻の歌集に編まれた作品に対して、無理やり、ものがたりを読み取ろうとするのはいけないのかもしれないが、この連作の次が「林業研修」という章なので、このあたりの作品に、それまで勤めていた企業が倒産して、あらたな職業としての林業を選択するにあたっての心理的な起伏や陰翳を読み取ろうとしてしまうのはしかたがない。

 引用作品の三首目までは状況に向かい合おうとする作者の強い姿勢が読み取れるが、四首目になって「すでに負けつつ」という忖度があることに、リアリティがある。次の「林業研修」という六首の作品は、あえて全部引いてみる。

 

越境を遂げつつ柿の春の枝新芽のときを異空に待ちぬ

沈丁花どこかに咲ける空家かな鼻孔ひらけば泣きたくなりぬ

こうなればきみ、森を守るもよろしからむ林業研修は実習に入る

間伐を習うことを楽しみに通える夫に良き弁当つくらむ

野の山葵三ッ葉の浸しに飽きる頃にょんと伸びくるすかんぽがある

ただ身体のつかいかたがわからなくなるとくるしいのです瓶の椿よ

 

 この六首、林業の研修を本格的に受けるために、山間の空家に引っ越しをして、新たな生活が始まるという事情がうかがえる。もちろん、そんな事情を裏読みするのではなく、作品自体を読むべきだろう。二首目の沈丁花がどこからか匂ってくる空家や六首目の「身体のつかいかたがわからなくなるとくるしい」という身体的な実感の吐露には共感できる。もちろん私がそれほどの状況に追い込まれたことがあるわけではないが、歌の表現にそれだけの力がある。結句の「瓶の椿よ」という詠嘆も決まっている。これで心情と抒情が結びついて短歌になっている。作者も短歌をつくっているのであり、読者である私もちゃんと短歌を読んでいるということなのだ。特別な体験をベースにした歌を読む時、ついつい、読者としては、表現として自立した短歌を感受するのではなく、短歌の素材にされた事実関係にひきずられそうになることは確かである。ただ、この歌集の場合はつくり手の側に、短歌を表現形式として自立させる強い意志がある。それゆえに、興味本位な浅い読みは通用しない。それは歌集としての大きな価値である。

 

生命保険最後のひとつの解約を電話に言いぬ早口に言いぬ

冷蔵庫死んだ。買うも直すも銭のなし。いかつい洞があることにする

汲み取り代一万一千円を支払いぬ糞するくせにしないふりすんな

肉欲にかかわることを うつぶせの背にささる山の夜気のするどく

椅子飛んで鍵飛んできてかんたんにひとは暴発したり土曜日

一年を無職貧乏に生きてひとは林業研修に力をためて

腹減って腹減ってわし せつなさは腹から来ることわかるよ熊よ

 

 自然を畏れ、また馴染んで日々を過ごすことは困難であるはずだが、その困難の中でももっとも人間的である事情もある。そういう困難を回避して生きることはできない。生命保険や冷蔵庫の故障や排泄や肉欲や喜怒哀楽や貧困や空腹といったあれやこれやに、どこで暮らそうと否応なく対面しなければならない。そういう真理を回避せずに詠うことが、なみの亜子という歌人の真骨頂なのかとも思う。これらの歌は、収載されたそれぞれのページで、期待される役割をはたしている。こういうことは、歌集の編集に関してはとても重要なことだと思うが、案外、ないがしろにされていることが少なくない。もちろん、それは、作者自身の表現意識の繊細さの証明ということになる。

 一首の歌として、私が直截に心をうたれた歌を挙げてみる。

 

山に向けひろげるからに干し物のかたちただしく干したしわれは

草の熱こもれるなだりをゆくときにこんな感じの抱擁だったと

とんびふたつ空を出でてはまた入る空にあまたの襞あるごとく

ひよどりはせわしない鳥枝くぐりくぐっておいて邪魔にする蹴る

廃路にも秋のひかりは降りながらたちまち老ける秋のひかりは

五新鉄道敷設予定路上の雪 永遠(とわ)に未踏のままにし消えむ

父よ母よと声にいだして言うのみに鼻の奥よりにじめるなにか

飛翔体と思いいしものはまるごとの柔きぬくたき生身の バード

ある日根こそぎ失われるのだこのたびは此処でなかったあなたでなかった

山桃をジャムにせむとて始めたる種取りなれど倦みぬたちまち

日の本の放射性廃棄物として秋の葉は落ちて落ちきて朽ち遂げられず

眺めよき山中に立つ電柱の古きすがたを傾けるが良し

卯の花のひと枝挿せる部屋すみにはつか照らされ柱という木は

 

 書き写しながら感じたのは、漢字とかなのバランスが巧緻であることと、新かな遣いゆえの歌の姿勢の凛々しさだった。旧かなという不必要な意匠を拒絶していることが、歌の言葉に意識的な緊張感を与えている。自然という大きな主題をかかえこんでいるみずからの歌状況を自覚すれば、旧かな遣いというさらなる修飾要素を排して、表現の直截を先立てた新かな遣いを選択したことが正解であったろう。

 きわだった身体感覚はこの歌集に限らず、以前からのなみの亜子の短歌の特徴だったとは思うが、たとえば二首目の「草の熱こもれるなだりをゆくときに」というフレーズから「こんな感じの抱擁だったと」という身体性を呼び起こす感覚には冴えを感じる。

 修辞の巧みさということでは、三首目の下句「空にあまたの襞あるごとく」が例として挙げられる。今後、夕空を舞うとんびを見たら「空にあまたの襞あるごとく」とつぶやいてしまうにちがいない。

 

九首目の「ある日根こそぎ失われるのだ」は「五月の手」という一連の一首であり、直接的には東日本大震災からの連想ではないのかも知れない。しかし、植林と伐採という作業を一瞬にして喪失してしまう自然災害への畏怖ということからは、やはり、あの大津波による非情な映像のイメージが作者の心に底流していたのではないかと思ってしまう。少なくとも、読み手の側にそういう思いがわくことはおかしくないだろう。

たまたま、今回は大津波という海の災厄であった。しかし、それは「このたびは此処でなかったあなたでなかった」という偶然にすぎない。竹山広の絶唱「居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ」を連想させもする。毎日を自然と共棲している者の視点が「ある日根こそぎ失われるのだ」という強烈なフレーズを吐かせたのではないかと思えてしまうのだ。

この一首より前のページに「三月十一日」と詞書が付された「山の底よりおしあげやまぬ力あり樹より鎮まりこらえよわれは」、「その後にひんがしの海たかぶるを山の眼はかっとみひらきていむ」、「夜となれば寒いさむいよと哭くものの(バードなの?)何度もぶつかりきたる」と悲傷の感情を底流させた歌があるので、「ある日根こそぎ」の歌を上記のように読むのは、私の恣意的な深読みかもしれないが、こう読んだということを書き留めておきたい。

 

 十二首目は東日本大震災に端を発する東京電力福島原子力発電所の事故を背景にした一首。この原発事故もさまざまな立場から、たくさんの歌が詠まれているが、なみのの歌は深く突き刺さってくる。「日の本の放射性廃棄物として」という上句は大づかみではあるが、それゆえの普遍性を獲得している。つまりは逃げ場なしということだ。そしてそれに続く「秋の葉は落ちて落ちきて朽ち遂げられず」という無念の下句。朽ちること、朽ち果てることこそが、四季のめぐりの中の自然の摂理であるのに、放射性廃棄物として汚れてしまった落ち葉は、朽ちることすら遂げられないという認識の非情さ。いやそれは一歌人の認識ではなく、過酷な現実ではないか。

 最後の二首は、かたや電柱、そして部屋の中の古い柱の歌。これに一首目の干し物の歌を加えてもよい。日々の生活の中での思いや観察が、共感できるかたちで詠われている。生活の中にあるあれやこれや、山に向いて干す干し物、山道に傾いて立つ古い電柱、誰かが挿した卯の花と日の当たる柱。どれもいつしか自然と歌人に馴染んでいる。親和力という磁場の中で、お互いがその存在を容しあっている。特に歌集の後半において、この感覚が全体をおおっているように思え、それが読者にも新鮮な息吹として伝わってくるように思える。

 

小池さん、とわが呼ぶ鹿とコーネリアスに似てる女人とたて続けに遭う

見たことねえ鳥だと郵便夫の言うを山と渓谷社『日本の野鳥』に探しぬ

先生をしてるかあちゃんが終わるまで砂場に待つ児の廃校の秋

手作りパンを習いにゆくよ移住組先輩んちは薪ストーブの家

もうどこにも行けん気のするばあちゃんは谷の木の家(や)に間引き菜漬けつ

三十年のブランクののち逢いたれば生きちょったがかよと叱られて

 

 最後に他者が出てくる歌を引いてみた。配偶者と思われる男性。そして犬や猫や鹿や熊や狐や狸や猪やさまざまなバードは登場するが、この歌集には驚くほど人が出てこない。もちろん、帰省の一連には故郷の父や母が出てきはするが、山棲の共同体の他者はほとんど登場しない。その数少ない他者として、郵便夫やかあちゃんを待つ子供や漬け物をつくるばあちゃんの登場は、読者をほっとさせてくれる。とりわけ、四首目の「移住組先輩」の存在は、緊張をほぐしてくれるような安堵感をもたらしてくれた。と、同時に次の歌集が出るなら、こういった共同体のさまざまな人物とのかかわりあいが読みたいと思いもした。それは読者の勝手な言い草だとしても、なみの亜子の歌の世界の展開は、そういう方向への可能性も否定しはしないだろう。

 これはまた聞きなのだが、葛原妙子賞の受賞式のスピーチで、なみの亜子は「焚き火十年」という言葉を出して「村総出で草刈りなどをして、それを燃やす焚き火を囲んでいるときに、十年目くらいからやっと溶け込めたと実感できた」と語ったのだそうだ。ようやく溶け込むことによって見えてきた世界の陰翳を詠ってくれることを、読者としての私は期待したい。葛原妙子の貪欲な表現意志を、自らの作品の現場において展開してみせてくれてこそ、葛原妙子賞なる冠は輝きをますはずである。