藤原 龍一郎


ネクストステージへの期待

 この時評も最終回になった。時評を書くには動体視力が鋭くなければならないと、思ってきたが、とにかく自分の動体視力の衰えを実感した一年間だった。

 作品に対する感受性もめっきり衰弱した。というより、新鮮な作品と出会いたいという欲望が希薄になってしまったという感じなのだ。情けない話である。

 毎月、時評を書く機会がありながら、この一年の応募制の新人賞作品に関してふれなかったのは、そんな精神の衰弱による怠惰だったともいえる。十年くらい前までは、新人賞の発表号を鶴首して待ち、手に入ったら、即座に受賞作品と選考座談会をむさぼり読み、それに対する自分の賛否の意見を心にまとめたものである。

 それがいつしか、応募性新人賞の選考というものに期待をもたなくなり、まさに卒読するのみという体たらくの近年であった。しかし、時評を毎月書いているのに、それでは情けないし、時評子の責務をはたしているとはいえない。そういう反省をしつつ、今回は、あらためて、今年発表された歌壇賞、短歌研究新人賞、角川短歌賞の受賞作品を読んでみた。

 

 まず2013年2月号に発表された歌壇賞。選考委員は伊藤一彦、今野寿美、内藤明、東直子、道浦母都子の五氏。

 

歌壇賞

服部真里子「湖と引力」三十首より

待ち合わせのごくありふれた光景を僕たちもまた 晩夏の光

くだらないことであんまり笑うから服の小花の柄ぶれている

舌の形のサルビアの花やわらかく室外機からの風に吹かれる

八月をすぐ遠景にしてしまう日暮れの舟のしずかな離岸

湖と君のさびしさ引きあって水面に百日紅散るばかり

黒髪も茶髪も風に流れればみんな模様のない万国旗

コンビニはひかりの名前ひとつづつ呼びかけながら帰路は続くよ

 

 受賞者の服部真里子は1987年生まれ。早稲田短歌会を経て、現在は「未来」所属。

 湖というイメージを緩用しながらの恋愛の歌。ただ、「君」、「きみ」といった二人称代名詞が頻出するわけでもなく、一首一首の展開もくふうされていて、好感をもって読み進み、読み終わることができた。

 一首目の「晩夏の光」という詩語はありふれてはいるが、一字あけのあとの結句にすえることで、類型的な感じはかわしている。二首目の下句の「服の小花の柄ぶれている」という展開はユニークだと思う。大笑いしていると、確かにからだがよじれて、当然、服の柄もぶれる。コロンブスの卵的な発想で、こう詠まれると記憶に残る。

 四首目の歌も、ストレートな恋情が詠まれているわけではないが、心理的な陰影を巧みに下句が象徴しえている。「ふたりのボートは岸を離れる」という意味でありながら、そうは書かずに「日暮れの舟のしずかな離岸」と書ける意思に共感する。とりわけ結句の「離岸」という漢語を使いこなしてみせる感覚は鋭い。

 

 七首目のコンビニの歌に関して、選考委員の一人の東直子は次のように語っている。

 「男女が夜道を歩いている場面ですよね。その道に光っているのはコンビニの光だけ。それを「コンビニはひかりの名前」であるとするこの認識にポエジーがあります。道を歩いていて、「呼びかけながら」だから、あそこにファミリーマートがある、あそこにサンクスがあるねという会話をしていた、と。」

 私は初読時はうっかり読みすごしてしまったのだが、上記の東直子の発言に教えられて、あらためてこの一首の魅力を感受できた。コンビニエンスストアが夜道に光っている光景は、現実に見慣れてもいるし、そういう素材の短歌も読んだことはあるが、この服部真里子の歌は、比喩もそれ以外の表現もきちんと納得でき、すぐれた現代短歌になっている。この一首も私は「帰路は続くよ」という結句が、とてもみごとにそれ以外の部分を支えている。結句がうまいことばかりを書いているが、それは一首の着地が意識的になされており、その効果を作者自身が信じているということでもある。

 受賞作以降の作品もぜひ読みたい、はやく歌集を出してほしいと思わせる点で、服部真里子は登場するべき新人だったのだといえる

 

続いて短歌研究新人賞。選考委員は加藤治郎、栗木京子、穂村弘、米川千嘉子の四氏。栗木、米川の両氏がこの作品を一位に推したようだ。

短歌研究新人賞

山木礼子「目覚めればあしたは」三十首より

触つてはいけないものばかりなのに博物館で会はうだなんて

漢字とは占ふ文字でありしゆゑたくさん使ふ愛の手紙に

青銅の刀貨は指につめたからむ 口にふふめば見咎められむ

さかさまのビールケースに腰かけて都合のいいことだけを思つた

みなみかぜ 二足歩行のはじめにはだれもが胸を隠さざるなり

多言語のリーフレットはすきまなくラックに挿され夜を待つらむ

目覚めればきみのあしたはけふの日の遺跡のなかではじまるだらう

 

 受賞者の山木礼子は1987年生まれ。「未来」所属。一連は服部真里子と同じく恋愛の歌であるが、三十首の舞台が博物館というユニークな連作となっている。こういう限定的な舞台を設定してしまうと、あれもこれもという素材主義におちいりがちだが、視点の独自性によって、そういう弊害をきちんと回避している。旧かなづかいであることも、この作品に関しては、単なる意匠ではなく、ある種の格調を作品に底流させる効果をあげているように思われる。

 一首目は軽い機知の歌だが、いやみがない。二首目の「漢字とは占ふ文字でありしゆゑ」も知的な認識の敷衍だが、これみよがしのいやしさがないので、読者も抵抗なく受け容れることができる。一首目の歌に関しては、栗木京子が次のように発言している。

 「この歌の背後には本当は私はあなたに触れたいという初々しい願望があって、その裏返しとして、近づいてもいけない、触ってもいけない展示物ばかりの博物館でデートなんて、というすねた感じが出ていていいなと思いました。初々しさが幼稚さに行くのではなくて、骨格が確かで健康的な感じへ行くという作品は、ここのところ新人賞の候補になかったので、たいへん注目したんです。」

 「骨格が確かで健康的な感じ」という感想に同感する。それに加えれば、読者への不必要な媚がないことも、読後感のよさを生み出している要素だと思う。

 四首目のビールケースの歌は、男友達と居酒屋に行っての場面を回想している。「都合のいいことだけを思つた」との下句は、内省というほど深刻ではないが、そういうこともありそうだと読者に思わせる力はある。

 次の二足歩行の歌は機知を超えて、思索の深みに向かっているといってもよいかもしれない。その一方で、多言語のリーフレットの歌のように、観察と想像の歌もある。静謐な魅力を私は感じる。やはり、栗木京子が指摘している「健康的」という本質が、読者に対して、読み応えを保障する要になっているといえる。

 歌壇賞の服部真里子の方が、いわゆる短歌的抒情にはなじんでいると思うが、山木礼子の資質はそのなじまなさの距離にある。それは先行者とも同時代の他者とも似ていない感性ということで、じゅうぶんに価値があるだろう。

 

角川短歌賞の選考委員は小島ゆかり、島田修三、永田和宏、米川千嘉子の四氏。受賞者は二人。吉田隼人を推したのは、島田修三、永田和宏の両氏。

角川短歌賞

吉田隼人「忘却のための試論」五十首より

死の予期は洗ひざらしの白きシャツかすめてわれをおとづれにけり

曼珠沙華咲く日のことを曼珠沙華咲かぬ真夏に言ひて 死にき

詠ふときあなたは致命的にもう遅れてゐるよ ゆふだち だち ち

恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月

にんげんは己れの死ぬる季節さへ決めもあへねば庭に沙羅咲く

棺にさへ入れてしまへば死のときは交接(まぐは)ふときと同じ体位で

寺町にわれは他所者うすずみの夜の駅までのゆくへも知らで

喪、とふ字に眼のごときもの二つありわれを見てをり真夏真夜中

サイモンとガーファンクルが学習用英和に載りてあり夏のひかり

思ひだすがいい、いつの日か それまでの忘却(わすれ)のわれに秋風立ちぬ

 

 受賞者の吉田隼人は1989年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程に在学中。「早稲田短歌」、「率」に所属。

 テクニカルな歌だという第一印象だったが、テーマが重い。関係があった女性の自死をめぐる形而下、形而上のあれやこれや。選考委員会での島田修三の発言を引用する。

 「すごく身近な女性に自殺された若い男がそれをどう受け入れるか、あるいはどう認めるか、あるいは理解しようとするか、そのジタバタの感じが非常に真実感に満ちている気がしました。これは作ってないんだ。しかも重いテーマを軸として、固い文語とか、くだけた口語とか、シリアスな情感とか、あるいはポップな、通俗な感情が自在に入ってきている。それがそう軽薄な感じではない。」

 この発言が「忘却のための試論」の魅力を的確に言い当てている。とにかく技術力が高い。昨年の受賞者の薮内亮輔の技量も驚くべきものだったが、吉田隼人もまさるとも劣らない。学生短歌会から、こういう才能が連続して出現するのは、ややオーバーにいえば、現代短歌が次のステージへ向かうための準備が整い始めているということかもしれない。明治維新を迎えるため、幕末には数多くの異才、鬼才が登場した。そういう時代に入ったのかもしれない。もちろん、その変化と激動の過程で、彼らもまた淘汰の波にさらされることにはなるのだろうが。

 

伊波真人「冬の星図」五十首より

夜の底映したような静けさをたたえて冬のプールは眠る

「惑星を発見したい」と抱きあげる望遠鏡の長さは遠さ

暗闇で方位磁石をさぐるとき右手は宙を何度もつかむ

画用紙に表と裏があるように心にもあるざらついた面

自転車のヘッドライトの光線は闇から闇へ渡す架け橋

改札で遅延放送きいているスピーカーのある位置を見上げて

傘の柄のかたちの街灯つらねては雨の気配に満ちる国道

区切りとし人はたばねるものなのかたとえば雨傘、カーテン、花束

 

 1984年生まれ。「早稲田短歌会」を経て、現在は「かばん」所属。

 言葉を繊細な感覚で選択し、その次の言葉とのつなぎや構築にきわめて丁寧に神経をつかっている。ゆえに、読んでいて気持ちがよい。音読すると、その言葉の構築の緻密さがよりよく理解できるはずである。

 ただ、星への想いという大枠の設定が、抒情的な仕掛けであることは確かであり、そこに物足りなさを感じるという読者がいても不思議ではない。どの歌も言葉と言葉の流れが流麗で、韻律をあえて崩すというような技巧は意識的に排されている。内容的にも毒気や突き刺さる批評意識といったものは、あえて避けられている。

 永田和宏の選考委員会での下記の発言もそういう特質を言い当てている。

 「一番たくさん○が付いたので選んだ。われわれ歌うときに、自分の感情を言いたいために景を取りこんでいる歌はけっこう多い。一方、景が気づかせてくれる感情を歌うということも大きな楽しみだと思う。そういう感情を刺激してくれる歌がこの中には多かった。」

 その例として永田和宏は、掲出の「画用紙」と「遅延放送」の歌をあげている。この二首は確かに、心理の表裏を物や行為を通じて表現しえているが、ただ、五〇首の中では傍流の作ではある。

 「だけど、この人ここから先どこへ行くの?という気がある。かなりうまい。今まで出てきた「これからの人」「初心者」とは逆に、この人は作り込んでいるという感じ。だからこういうところまで目が行っている。そこが新人賞としていかがなものかと僕は思う。」

 こちらは島田修三の発言。私もこちらの意見に賛同するが、「暗闇で方位磁石をさぐるとき右手は宙を何度もつかむ」「傘の柄のかたちの街灯つらねては雨の気配に満ちる国道」といった作品は、その端正さの奥に、永田和宏が言う「景が気づかせてくれる感情」の陰翳を深読みする自由も読者にはあるような気がする。

 

 2013年という一年が、現代短歌史の中でどのように位置づけられるのか、とても興味深い。すぐれた新人賞歌人の登場、そして、新鋭短歌シリーズのマスとしての出現もふくめて、ネクストステージへの期待を抱かせるエポックの年であるように私は思う。