ひねくれバッハの憂鬱   ~小高賢の一周忌に~

 

 ひとつの文学として味読するよりも、ただひとりの男に会いに行くために読む  ということがわたしにはある。小高賢の遺歌集『秋の茱萸坂』(砂子屋書房)は、わたしにとってそんな一冊であった。読むほどに、小高賢という男のすがたがどうしようもなく立ちあがって来るのだ。それもまた、もうひとつの文学のありようなのだとわたしは思っている。

  小高賢は、昨年二月十一日早朝、千代田区内の事務所で亡くなっているのを発見された。前日十日夕刻、脳出血の発作による死であった。享年六十九。有能な論客として近現代短歌に通じ、この十年ほどを振り返ってみても、社会詠のあり方を論じ、老いの歌の可能性を信じ、歌壇における批評の不在を嘆きつつ、つねに時代や状況に対する犀利な目を失わなかった。それは皮相的な現状批判ではなく、もうひと回り大きな視点から俯瞰することで、そこから一歩先へと背中を押すような論であった。歌人である以前に、講談社の名編集者としての眼力と経験の蓄積がそうさせたのかもしれない。幾冊かの評論集のほか、近藤芳美や宮柊二、上田三二四についても好著を残した。その他、入門書や編著などの著作も多い。これからの現代短歌の牽引役として、多くの人が小高の力に期待していた。そこには、死の影など微塵もなかった。

 

  死ぬまでにあといくたびの昼飯やはかなきことのよぎるゴマそば

  わが顔もいずれは花に囲まれるできたら赤き花を多目に

  死後子らは見つめるだろう備忘録のノート冒頭暗証四桁

  われに来る遠からず来るこの世から魂(たま)うき上がり離陸するとき

 

 しかし、現実の死がこんなにも早く訪れるとは、小高自身予期していなかったろう。『秋の茱萸坂』は小高の死後、パソコンに残されていた草稿を妻である鷲尾三枝子さんが発見した。あとがきだけを残した完全原稿で、データ上の脱稿日は死の三日前だったという。

 「死ぬまでにあといくたびの昼飯や」という感懐が、それほど切実であったとは思われない。六十代の小高に死のイメージは似合わないからだ。むしろこの感懐は、生きてきた歳月の濃さの反映だったのではないか。人生が有限であるかぎり、数倍の速度で疾走すれば、たちまち残生の余力など消費してしまう。事実、伊藤一彦氏のインタビューに応じて、いつも残された歳月を計測しながら過ごした少年期の思い出を小高自身が語っている(牧水賞シリーズ『小高賢』青磁社)。蕎麦屋で昼めしを食いながら、この密度を維持してあとどれぐらい走れるだろう……とふと小高は思ったのだ。わたしはこの一首をそう理解している。

 自らの葬儀にあってなお「赤き花」を多く手向けよという。この二首目もまた死のイメージからは遠い。花の赤さは生の象徴であり、死が人生の射程内にはいる年齢となっても、納棺される小高の目はいきいきと生の岸辺に向いているのだ。六十代半ばをこえて〈死〉を想起するのは珍しいことではないし、前掲の四首もまたそうした日常の延長上での感懐だったろう。

 最初に小高賢に出会ったのは二十代の後半である。彼はわたしより十歳年長であるから、当時三十代後半だったろう。おそらく、小高賢が「かりん」創刊に参加して数年後の時期だったのではないか。以後三十年余、随分と多くの批評会や酒席でご一緒させていただいた。

 あれは、現代歌人協会のパーティの二次会であったか。「加藤さん、あなたがあんなもの書いちゃだめだ」と小高さんに言われたことがある。それは、早世した気鋭の文芸評論家・小笠原賢二について書いた拙文「停滞からの脱出  小笠原賢二がいた場所」(2004年「路上」101号)を指している。何がだめなのか分からないでいると、「加藤英彦はだめになったぞ!」と周囲にも声を荒げられた。わたしは、小高賢にそう言われても少しも不快ではない。小笠原賢二は現代短歌にとって稀少な評論家であり、前述の一文は志半ばに鬼籍に入ったこの若き批評家を悼んでのものであった。そう言えば、小笠原賢二もまた、歌壇における〈批評の不在〉を嘆いたひとりであった。かつて、小高賢は生前の小笠原賢二と総合誌上で論争になったことがあり、そのことが尾を引いているのかも知れない、とふと思った。あるいは、わたしの論の踏み込みが甘いという小高流の指摘であったかも知れない。

 そうかと思えば、小高賢VS大辻隆弘、吉川宏志の社会詠論争が話題になったときには、拙文「その先に一歩でる  最近の社会詠論争によせて」(2007年「Es」13号)を読まれ、丁重なお礼と激励の手紙をいただいた。社会詠の必要性とその表現の困難性について論じた小高賢の立場に共鳴し、論争の基軸に修正を加えるつもりの一文であった。小高賢とは、明晰さの向こうに熱いものを抱いた男なのだ、と改めて思った。

 

  一のわれ二のわれがいて物欲しげなるあり方を二が批判する

  言うほどにむなしくなりぬしかしまた言わねばならぬ言ってこそわれ

  意地をはり意地をとおせば夕暮れが大丈夫かと近寄ってくる

  四〇〇字ほどの略歴 書けざりし一、二のことは今後も書かぬ

  ああ彼は駄目になったなモチーフがひどく時代にすりよる気配

 

 小高賢は断言の人である。あらゆる価値観がゆれ動き、さまざまな思索が錯綜する現代にあって、断言するということは難しい。しかし、ここは一度断言しておかないと、この先一歩も前には進めないぞという危機感が小高にはあったのだろう。まるで碁盤に石をうつように、ひと言ひと言が胸にひびいた。

 複雑な状況の外側に身をおいて、いろいろな可能性を示唆しているだけでは何も始まらない。複眼的な視野とは、このたったひとつの断言を導くために必要なのだ。いい人をしていれば良いのであれば、こんなに楽なことはない。虚しさを承知の上で、「言わねばならぬ」と思う自らを裏切ることができない、それが「書けざりし一、二のことは今後も書かぬ」という潔癖さと同居しているのが小高賢である。かつて、「論敵はすべて撃たねばならぬ」と言ったのは吉本隆明だが、小高賢もまた論争好きであり、どこか傍観者に徹することが生来的に不得手な人なのだ。一本の杭を打つように、小高の批評は突き刺さった。

 

  いただろうバッハ音楽一家にもひねくれバッハ気のいいバッハ

  合格のよろこびに似て蘭の鉢咲(ひら)くたびごと妻は告げ来る

  仏壇の母の笑いにいちばんの朝の茶供え妻は頭を下ぐ

  子の相手妻より洩れ来 春寒の夜半の空気のほどけるごとし

  並む妻と「ハンタイ」そろえ蕎麦屋にて酒をかわせるふたたび妻と

 

 その小高賢に家族の歌が多いのは有名である。それは、わたしなどの知らない小高賢の私生活の表情を覗かせてくれる。ある夜、部屋の鉢に蘭の花がひらいた。開花するたびに告げにくる妻の少女のような心おどりが何とも微笑ましい。おそらく小高は「はあ」とか「ほお」とか応じるだけだったろう。わたしたちの知る小高賢は弁舌家で、どこからでも豊富な知識の抽斗をひらいて、いつもその場を盛りあげる。ときに辛辣にときにユーモアを交えて、その圧倒的な知識量と批評の切り口は鮮やかだった。

 しかし、先の伊藤一彦氏のインタビューによれば、「僕のおしゃべりは自己防衛に近い」のだという。俄には信じがたい発言だが、「だから本当のおしゃべりかどうかは分からないのですよ。うちではあまり話さないからね。」と続いたあと、「うちにいると自己防衛しないでいいわけですから。」と結んでいる。つまり、小高にとって家族とは自らの拠点であって、そこは外界での闘いを終えてもどる安息の空間なのだ。精神と肉体をぎりぎりまで酷使して、深夜おそくに帰宅する。それは程度の差こそあれ、戦後の一般的な家族の構図とさして変わらない。そして、愛娘が恋人の名を告げるのは父ではなくて母。その妻から相手の名を聞かされて、「春寒の夜半の空気ほどけるごとし」なのだ。これもまた、戦後の父性の典型であったろう。

 3.11以降、小高賢は毎週金曜日の国会議事堂前にいた。反原発デモに参加するためである。余程のことがないかぎり、毎週足を運んでいたという。主義や立場を越えて参加しなければと思いつつ、一度も足を向けていないわたしは、そんな自分を恥ずかしいと思う。何かが変わるわけではないかも知れない。しかし、仮になにも変わらなかったとしても足を運ぶのだ。自分の一歩が何かを変えるなどといった高邁な幻想はそこにはない。集団のなかの一人ではなく、ただひとりの無名者の意志としてそこに赴くのだ。それを小高は「意地」だという。自らの意志を刻印するように、踏みとどまる存在であろうとする小高賢がそこにいる。

  「ひねくれバッハ」、「気のいいバッハ」は、頑固でやさしいバッハでもあったろう。意地っぱりで論争好きのバッハでもあったはずだ。『秋の茱萸坂』の一首一首を目で追っていくと、そこからどうしようもなく小高賢の声が聞こえてくる。

 小高賢の死をわたしは宮崎で知った。昨年二月十二日、晋樹隆彦氏の歌集『浸蝕』が若山牧水賞を受賞し、氏を祝うために授賞式会場である宮崎観光ホテルにいたのだ。その朝、ロビーで会ったながらみ書房の住正代さんから「小高さんが亡くなったよ」と知らされた。あわててホテルのフロントで二、三紙の新聞を買い求め、訃報記事に目を走らせた。このときのざわっとした感覚をわたしは今でも忘れない。

 この十数年の間に、歌壇は齋藤史、春日井建、塚本邦雄、山中智恵子、前登志夫、安永蕗子といった巨星を次々に喪い、文芸評論家・菱川善夫、小笠原賢二を彼岸に送り、名編集者であった冨士田元彦を冥府へと旅発たせなければならなかった。六十五歳で亡くなった春日井建は、〈若き定家の死〉として納得するしかなかったし、五十八歳で他界した小笠原賢二を除けば、それらは天命の赴くところの命数であったのだと言えなくもない。しかし、菱川善夫、小笠原賢二、冨士田元彦の三名の死は、わたしにはいまだ了解されざる死として胸に痛いのだ。七〇年代の同人誌運動の推進役であった藤田武もまた、昨年一月、死後三日目に自宅の浴槽で発見された。時代を担った歌人や批評家たちが、一人また一人と深くて巨大な闇のなかへと呑まれていった。

 人間はいつも人生の途中で死ぬのです  とは、詩人吉岡実の葬儀で語った大岡信の弔詞であるが、小高賢の唐突すぎる死は、おそらく自らの死をひとつの断念として迎え撃つ余裕すら与えなかったろう。死へのどのような準備も許さなかった死として、わたしは好漢小高賢の死を悼む。小笠原賢二もそうであったが、小高賢もまたやり残した多くの仕事を此岸に残したまま旅立ったはずだ。この突然寸断された時間の帯を繋ぎあわせることは誰にもできない。

 しかし、小高賢のことだ。あちらのほうが論争の好敵手は多いかも知れない。結構、愉しくやっているのではないか、とこの頃は思うようにしている。

 

  朝刊の二、三紙を購うあまりにも唐突すぎるぞ 暁の死は

  まだそこにいるような気がしてならぬ語り口調が耳をはなれぬ

  小高賢その小気味よき論調をなつかしみつつ酌む二、三合

(2014年、同人誌「Es」27号)

 

 もうじき、小高賢の一周忌である。合掌。