加藤 英彦


おまえの顔が傘でみえない

 だれでも生命あるかぎり、人生の歳月に相応する苦悩や挫折を生きている。とはいえ、老年の挫折が若き懊悩よりも深いなどとは誰にもいえない。逆もまた然りである。そんなあたりまえのことを書いてどうするのか。ただ、世智にうとい若さはそれゆえに負う傷もまた深いだろう。妥協を許さない青年は、全身でごつごつとした岩礁を抱こうとして、自らの血もかえりみずに荒々しい波に呑まれてしまう。迂回することを知らない純粋さは、本当に駄目になりそうなとき、ときに容易に死をもって自身の苦悩と刺しちがえようとする。

 

  負けない事、投げ出さない事、逃げ出さない事、信じ抜く事、

  駄目になりそうな時、それが一番大事

  負けない事、投げ出さない事、逃げ出さない事、信じ抜く事、

  涙見せてもいいよ それを忘れなければ

 

 1991年に爆発的にヒットした大事MANブラザーズバンドの「それが大事」という曲である。カラオケなどでよく歌われていたから歌詞は知っていたが、曲名もグループ名も知らなかった。わたしは昔からこの歌が嫌いである。先日、田井安曇さんを偲ぶ会の帰り、ひとり立ち寄った居酒屋でかけられているのを聞いて、再び複雑な思いにとらわれた。そして、居酒屋の店主からこの曲名とグループ名を教わったのだ。

 この歌詞には「何に」負けないことが大事なのか、「何を」投げださないことが大事なのか、「何から」逃げださないことが大事なのか、そして「何を」信じ抜くことが大事なのか、それらがすべて抜け落ちている。つまり、視聴者はそこに好きな「○○○」を当てはめればよいのだ。

 しかし、「それが一番大事」と歌うからには、「何に」負けないことが大事なのか、「何から」逃げださないことが大事なのかを伝えるべきだろう。それらを視聴者の好みの言葉に委ねるのであれば、この曲は「すべてに負けないこと」、「すべてから逃げださないこと」が「一番大事」なのだと歌っているに等しい。そんな無責任な歌詞があるか、そもそも歌詞に責任などを問う愚を承知のうえで、わたしはそう思う。

 本当に「駄目になりそうなとき」に一番大事なのは、負けてもよいではないか、逃げ出したってよいではないかという回路をこころの片隅に用意しておくことである。このグループはいったい、今という暗い時代に「信じ抜く」に足る何があると思っているのだろう。負けない、投げださない、逃げださない、信じ抜く、これらにはどれも相応の意志の力が求められる。本当に「駄目になりそうな」とき、そんな力が残されているとでも思っているのだろうか。

 負ける自分を許せない人間、投げだすことができない人間、逃げだすすべを知らない人間は、やがて自らを精神の暗闇へと追い込んでしまう。そんな人たちを何人も見てきたし、わたしは彼らの不器用な一途さが決してきらいではない。しかし、軽快なリズムにのせて視聴者を煽るかのように、「それが一番大事」と繰りかえし繰りかえし歌うこの曲をわたしは好きになれないし、気持ちよさそうに大声で唱和する人々にもどこか親しめない不自然さを感じてしまう。ネットで検索すると、「一人でも多くの方が救われますよう祈っています。この震災で亡くなられた方にご冥福を。被災地で苦しむ方、みんな全力で応援しています。」というメッセージのあとに、この曲が流される。曲がながれ出した途端、わたしはこれらの言葉がいかに空々しく、欺瞞に満ちているかを思うのだ。「世界中のひとに聞かせてあげたい」というコメントまで付いている。わたしはますます塞ぎこむ。酒がまずい。

 

  雨が降るやうにしぜんに泣けばいいおまへの顔が傘で見えない

  白鳥より黒鳥うつくしきことを告げんとす雪のなかのくちびる

                              小島ゆかり『希望』(雁書館)

 

 悲しいときは泣けばよい。雨が降るように自然に涙すればよい。そんな素直さを大切にするこころを忘れたくないと思う。「涙見せてもいいよ それを忘れなければ」と歌う大事MANブラザーズバンドには、小島ゆかりの「雨が降るやうにしぜんに泣けばいい」という無条件の包容がない。おまえの顔は傘でみえないが(おまえが泣いているのがわたしにはわかる)だから、傘などあげなくてよいのだと小島ゆかりは詠う。「○○を忘れなければ」などという条件は最初からない。「一番大事」なのは、本当に泣きたいときに「しぜんに泣け」ることではないか、と小島は思っているのだ。

 二首目では、白鳥よりも黒鳥のほうが美しいと〈わたし〉は誰かに告げようとする。古来より白鳥は美しさの象徴であり、黒鳥はその色彩的な〈負〉のイメージから美しさには遠い存在とされてきた。それが「白鳥」と「黒鳥」に対して人間たちが与えた意味であり、世俗的な固定観念である。そんな刷り込みを脱いで自由な眼差しで黒鳥を瞠めるとき、黒鳥には黒鳥ゆえの美しさがあり、もしかしたらそれは白鳥のもつ美しさよりもずっと美しいのだと気づいたのだろう。ことさらに〈負〉のイメージを反転させようとして詠っているのではない。無意識の刷り込みからこころを解放すれば、もっと素直に黒鳥のうつくしさが見えるのだ。

 「涙見せてもいいよ それを忘れなければ」という歌詞には、どこか優越的な匂いがつきまとう。「○○してもいい」という許諾の言い回しや、「○○を忘れなければ」などという条件設定に、まるで弱者に教え諭すような感覚が仄みえるのだ。「雨が降るやうにしぜんに泣けばいい」という丸ごとの受容と比べれば、その差は歴然とする。泣きたいときは泣けばよいと心で呼びかける小島の目は、黒鳥に美しさをみたあの目と同じである。それは、決して強くはない人間のあるがままを、愛おしい存在として抱擁する〈母性〉に近いかも知れない。

 いっぽうで、白鳥が〈美〉であり黒鳥が〈醜〉であるとする観念は、黒か白かで美醜の差を判別しようとする世俗的な価値観に基づいている。それは、「投げ出さない事」、「逃げ出さない事」が善であり、その逆は悪であるとする評価軸とどこか似てはいないか。そして「投げ出さない事」、「逃げ出さない事」が「一番大事」であり、「それを忘れなければ」涙を見せてもよいのだとする考え方は、そう語っている者たちがどこかで信じて疑わない正義の匂いを纏っている。そんな観念の呪縛の胡散臭さが、またわたしを憂鬱にさせる。やはり、酒がまずい。