加藤 英彦


神のやどる海へ  ~梶原さい子歌集『リアス/椿』を読む。

 今年の寺山修司短歌賞(第20回)は、昨年2月10日に急逝した小高賢の遺歌集『秋の茱萸坂』(砂子屋書房)に、また葛原妙子賞(第11回)は、梶原さい子の第三歌集『リアス/椿』(砂子屋書房)にそれぞれ決定した。寺山修司短歌賞を遺歌集が受賞するのは、1996年に賞を創設して以来初めてであるという。いっぽう、葛原妙子賞を受賞した梶原さい子は、気仙沼市出身で宮城県在住。2011年3月11日午後2時46分に三陸沖から東日本沿岸一帯を襲った巨大津波が、その後の彼女を大きく変えた。あの東日本大震災から四年、本書は被災地からの一歌集であるという以上の意味をわたしたちに示したように思う。

 

   この板の下に彼らのゐることをつくづく知りて誰も語らず

   奔る奔る船の舳先(へさき)は とことはに彼らのものとなりたる海を

   雑食の蛸であるゆゑ太すぎる今年の足を皆畏れたり

   泡の間にあまたの息の溶けゐるを思ひつつをり 一途に啜る

   竹藪にみちは途切れてこの崖を駆け上がれざるズックのありき

   もう海になりつつあるか打ち寄せてしまへば平き水の一枚

   女なり男なりを超えたるかたち網に掛かりて帰りたまひき

 

 いま、津波にかかわる作品だけを任意に引いてみる。歌集のなかでは、前後の作品の流れや連作のもつ牽引力に補強されて一首一首の意味は明瞭なのだが、ここでは任意の引用であるために若干の補足を必要とする。

 まず、一首目の「この板」は、その前の作品から御輿をのせて沖合にでた海女船の底板とわかる。おそらく、御輿は気仙沼市唐桑町の早馬神社を出発し、仮設住宅を巡って宿浦漁港から沖合に向かい神事を執り行う神幸祭神輿渡御である。海上の安全と豊漁祈願の祭事だが、震災後は鎮魂と復興祈願も加わっていただろう。それらを背景として再び作品にもどると、一首目と二首目に詠まれている「彼ら」とは津波に呑まれた死者たちである。あの日、津波は彼らを呑み込んだが、やがて彼らは冷たい海水に溶け込んで海の一部となり、今ではもうあの海は「彼らのもの」になったのだと梶原はいう。

 多くの行方不明者の漂う海は、死者たちの魂で満ちている。海の一部となった「彼ら」は、さながら海女船の航路を支える海神となったのかも知れない。この船底のしたに彼らの魂があることを知っているから、「つくづく知りて誰も語らず」なのだ。その沈黙の深さは、生き残った者たちの「彼ら」に対する鎮魂のあらわれである。

 四首目の「泡の間にあまたの息の溶けゐる」は、前の作品〈この浜に起こりたることふつくらとめかぶを解けば泡にじみ出づ〉から採れたばかりの和布蕪と知れる。その気泡には、海の死者たちの息がたくさん溶け込んでいるのではないか。だから、その和布蕪を「一途に啜る」ことによって、死者たちを自らの体内に呼びこみ「彼ら」を永遠に内部に刻み込もうとする。蛸が雑食であるから「太すぎる今年の足」を畏れるという三首目の作品も同様である。そこに死者の魂が宿っているからこそ、「今年の足」を畏れるのだ。

 畏怖するのは、残された者たちがそこに神をみるからではないか。そう思えば、七首目の「女なり男なりを超えたるかたち」などは、すでに性別の形態を失くした神そのものだろう。だから、「網に掛かりて帰りたまひき」とその帰還を秘かに祝うのだ。もし、男女の判別すらつかなくなった遺体に神をみたのだとすれば、それは一人の死という厳然たる事実を受け入れるある断念のかたちであったのかも知れない。

 死者に対する鎮魂や畏敬の念は、この歌集の随所にあらわれる。わたしが立ち止まるのは、そうした梶原さい子の鎮魂のありかたである。死者を悼んで、その霊を鎮めるための儀式性をおびた鎮魂ではなく、梶原はみずからの全身をかけて死者たちの前に立ち、両手をひろげて彼らと向きあおうとする。土地に繋がる者たちへの共同体的な紐帯がそうさせるのだろうか。

 

   ああみんな来てゐる 夜の浜辺にて火を跳べば影ひるがへりたり

 

 これは、震災後五ヶ月を経た盆の送り火の歌。「みんな」とは津波に呑まれた死者たちである。「彼ら」は、一人また一人と沖へと帰ってゆく。梶原の作品には、よくこうした「みんな」や「皆」が登場する。それらは、父祖伝来の漁師町という土地につながる者たちである。

 近代以降、短歌は〈集団〉に回収されない〈個〉の文学であり、それは一人称としての〈われ〉の内面の表出であった。六〇年代、七〇年代の大学紛争の〈われわれ〉や〈われら〉にしても、反権力につらなる同志であったり、世代的な〈連帯〉という括られかたで成立してきたように思う。それらはあくまで反権力や世代を基軸とし、その基軸が瓦解または幻想であったと気づいた時点でそれぞれの〈個〉へと拡散していく、そんな特定の〈意味〉を共有することで括られる集団であった。

 しかし、梶原の「みんな」はどうもそれとは異なっているように思える。「みんな」は〈個〉の集合としての〈全体〉ではなく、最初にまず「みんな」という概念があるようなのだ。例えば、それは村落共同体のような地縁による同族的親密さから発せられる「みんな」という感覚に近いのかも知れない。そこでは、〈個〉は〈集落=全体〉を構成する一要素にすぎないので、この共同体としての繋がりの強度は、反権力や世代といった〈意味〉を必要としていないだけにとても強いのだと思う。

 

   まだ波になりきれぬ波があることを思うて立てり昏れきるまでを

 

 波打ちぎわによせては返す小さな波動。このささやかな小波が、ある日、巨大な津波へと変貌する事実をわたしたちは知ってしまった。これは来たるべき災厄の予兆である。東日本大震災を経て、わたしたちはもう、「まだ波になりきれぬ波」を単に岸に打ちよせる小波として認識することができなくなってしまった。歌集『リアス/椿』は、収載作品を「以前」と「以後」とに分けて構成する。被災者の目で、震災以前と震災以後をもう一度たどり直そうとしている。

 震災後に、震災以前の平穏な生活に戻ろうとする力がはたらく一方で、わたしたちはどうしても戻ることのできない何かを抱え込んでしまったことに気づかされる。それは、「まだ波になりきれぬ波」も巨大津波も、同じいちまいの海であるという目である。震災の体験はもうそこから自由になることを許してはくれない。波とも呼べないような小波、それは震災以前にみたものとは全く別の何かである。自然に対する新たな畏怖の感情がそこから芽ばえたとしても不思議はない。そのことを記憶し続けることが、今のわたしたちには必要であるように思える。

                      *

 しかし、わたしたち人間は恐ろしいほど忘れやすい生きものである。かつて寺田寅彦は、明治29年と昭和8年の三陸地震の教訓から人間の忘却の早さを嘆き、しかし「『自然』は過去の習慣に忠実である」と言った(寺田寅彦『津波と人間』)。来たるべき災厄に備えるためには、だからわたしたち人間が「もう少し過去の記録を忘れないように努力する外はない」のだという。この寺田の指摘は正しい。ただ、それは物理学者・寺田寅彦の目だとわたしなどは思う。

 将来、科学の発達によって地震や津波の予知がどれほど正確になろうとも、あらゆる人智が災害に対するどのような備えを可能にしようとも、自然の災厄がなくなるわけではない。同じ悲劇をくり返さないために歴史から学習することは大切であり、その災厄を記憶し続けることが未来に備えるために必要な人間の知恵なのだとも思う。

 しかし、記憶し続けることが大切なのは、もう一方では死者たちへの鎮魂のためである。忘れてならないのは、災厄はふたたび巡ってくるが、そのときのわたしたちはもう昔のわたしたちとは違うのだという自覚である。それを教えてくれたのは、あの海の底にねむる死者たちであるという事実である。

 

 東北の長い長い海岸線。

 そこに、津波が来ました。

 ひとつずつの入り江に、そこで営まれていた暮らしに、受け入れてきたシステムにも、

 津波が来ました。

 実家は気仙沼市唐桑町にある神社です。

 津波が来ました。

 

 二〇一一年三月一一日、東日本大震災発生。

 これからの人生は、そののちの人生です。

 

 歌集のあとがきに相当する部分から引いた。「これからの人生は、そののちの人生です」とは、なんと重たい言葉であるか。それは、東日本大震災がすでにどうしようもなく戻れない何かをわたしたちの内部に刻みこんでしまったことを意味している。わたしたちは、もうその深い自覚からしか「そののちの人生」を歩むことはできないのだという、これは静かな覚悟の表明でもある。

 そう、この一冊は、多くの死んだ「みんな」をしっかり内側に刻み込むことなくして、そののちの生などあり得ないのだということをわたしに教えてくれる。