加藤 英彦


死について感じたこと、二、三

  今月は、佐佐木幸綱歌集『ほろほろとろとろ』(砂子屋書房)について書きたいと思う。第十六番目の歌集であり、昨年12月に刊行された。わたしなりに気になった作品を任意に引きながら書いていくため、そのあたりはご容赦いただきたい。

 

   老人のいない空港 戦争に殺されし者に待つ便はなく

   かたちあるものしか見えぬわれの目に死者らは見えずまして若き死者は

   うしないしハモニカのごと忘れいし北爆という言葉のひびき

   一月の雨にかがみて田植えする人よなかったごとき戦争

 

  これらの作品は、「ハノイ空港」という一連に収められている。ベトナム戦争終結(1975年)から四十年、ハノイ空港はきれいに整備された国際空港として繁栄しているのだろう。かつて、米ソの軍事介入を背景に長期化・泥沼化したベトナム戦争は、1965年、アメリカが北ベトナム全土に繰り広げた大規模爆撃(北爆)によって世界的な反戦運動へと発展する。日本においても、小田実たちの「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」が起ちあがり、「朝日ジャーナル」などのメディアによる反戦思潮に火がついて、六〇年安保闘争の広がりの中で全国的な市民運動へと展開していった。

  「老人のいない空港」は、この戦争によって殺された者たちの不在を際立たせる。もう、死んだ彼らを迎えにくる便は来ない。戦争の悲惨を痕跡すら残さないこの美しい空港には、彼らの居場所がないのだ。もし、歴史が現在と過去との対話であるとするならば、この光景には過去が抜け落ちている。そんな奇妙な不在感を漂わせる一首だ。

  「死者らは見えずまして若き死者は」と佐佐木は歌う。わたしたちの目は、ベトナム戦争の死者たちを捉えることができない。わたしたちは彼らの顔を知らない。「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならない」といったのは石原吉郎だが、名前はおろか、死にゆく目がどのような虚空を映していたのかさえ知らないのだ。これからの有為な人生を突然寸断された「若き死者」にいたっては尚更である。そこには、決定的に埋めがたい大きな暗い洞があるように思う。

  「北爆」という言葉も忘れかけた佐佐木の目に、雨のなかで「田植えする人」たちの光景は、まるであの戦争がなかったかのように平穏である。佐佐木はその光景の向こうに、なんとか戦時の悲惨を重ねようとする。しかし、「かたちあるものしか見えぬ」目に、それは杳として捉えどころがない。この一首はわたしにそんなイメージを喚起する。

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  ベトナム戦争について〈見ることの犯罪性〉を書いたのは文芸評論家・川村湊であった。1965年1月、南ベトナムの首都サイゴンで公開処刑されたひとりのベトナム青年ハレ・ヴァン・クェンに関する記述である。彼は二十歳の高校生で、地雷と手榴弾を運搬中に逮捕され、南ベトナムの憲兵によって処刑された。「早朝、五時四十五分、彼は予定通り、柱にくくりつけられ、黒い布で目隠しされ、十人のベトナム憲兵による十丁のライフル銃の一斉射撃で刑を執行された」という(川村湊『戦後文学を問う』/岩波新書)。

  当時、朝日新聞社の臨時海外特派員であった開高健と、讀賣新聞社の外報部記者であった日野啓三はこの青年の処刑を目撃している。開高健は「私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全身を浸し、むかむかと吐気がこみあげた」と記している(『ベトナム戦記』)。やがて開高健を襲った苦悩とは、従軍する過程で〈見る〉という行為は、戦争=殺す側への加担に他ならないという呵責の念であったと川村はみる。同じ光景を前にして、「いつのまにか膝がはげしく震えている。がくがくと音がするほど」と回想する日野啓三も、また同様であったのかも知れない(自伝的小説『台風の眼』)。

  冒頭の短歌作品に戻るが、「かたちあるものしか見えぬ」わたしたちの目に、開高健や日野啓三のような現場性が訴える衝迫力はない。そのとき、〈見ることの不可能性〉から出発しようとしたのが、佐佐木幸綱であったように思う。文学の問題としては、現実に見たか見なかったかという事実の直接性よりも、むしろ、見えない世界の向こうに何を見ようとするかという想像力の強度のほうが問われていると思うからだ。あるいは、「北爆」という言葉さえ遠くなってしまった今という時代を、どのように自覚的に捉え返すかが問われているように思うのだ。

  佐佐木は「北爆という言葉のひびき」を胸中に喚びもどす。そして、「なかったごとき戦争」の向こう側に、紛れもなく起こったあの戦争の非人間性を確認しようとする。佐佐木はそこに、放っておけばどのようにでも風化してゆく歳月の酷薄さをみたのではないか。

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  歌集『ほろほろとろとろ』には、死者が多く詠まれている。皆、佐佐木と交友の深かった懐かしい人たちだろう。髙橋和巳であり、冨士田元彦であり、竹山広であり、清水昶であり、国文学者井上宗雄であり、中村草田男であり、武川忠一といった人たちである。そのなかで、冨士田元彦について次の三首がある。

 

   君の中に燃える火を見し日を遠く思いつつ蝋燭の炎見ている

   きみの妻に頭をさげる 冬の花集えるしたにわれはしずかに

   つらくあれど心はおもうわが友の冨士田元彦の左手のこと

 

  冨士田元彦は、角川書店「短歌」編集長時代に中井英夫の後継者として辣腕をふるい、前衛短歌を推進して一時代を築いた名編集者である。各地で展開された同人誌運動やシンポジウムなどの積極的な推進役を果たし、「短歌」編集長を更迭されてからも、「フェスティバル律」を挙行して共同制作の可能性を示すなど熱い時代を創出した。ほぼ同時期に『現代短歌’66』に始まるアンソロジー四冊の刊行にも濃く関わり、やがて、自らは「雁  映像+定型詩」(1972~1979年)に拠点を構えて、在野から精力的な活動を展開した。その後、雁書館を起こして「現代短歌・雁」を発行するのが1987年である。以来、小紋潤とともに多くの歌集・歌書の出版を手がけている。わたしがお世話になったのは、この「現代短歌・雁」時代である。

  2009年12月18日、敗血症のため逝去。享年72。ながらみ書房の及川隆彦氏からその訃を報された福島泰樹は、翌日、冨士田の自宅を訪ねて経をあげている。「冨士田さんは、書斎に寝ておられた。茶碗を所望し、持参した酒をどくどくと注ぎ、枕経をおあげした。錬子夫人に無沙汰を詫びると、『福島さんに、お経をあげてもらいたいと言ってました…』。たまらない気持で、帰路につく」(時言・茫漠山日誌より「冨士田元彦死す」/「短歌往来」2010年2月)と記している。

  同月20日夕刻6時、通夜は世田谷の区民斎場みどり会館で執り行われた。松平修文、黒岩康氏が受付に立っており、篠弘、佐佐木幸綱、田村雅之、藤原龍一郎、谷岡亜紀といった人たちが弔問にみえていたのを覚えている。赤塚さんが来ていると聞いたのは、赤塚才一さんであったろうか。前掲一首目、二首目はその折の作品だろう。お清めの座敷で、幸綱氏が隣に座った錬子夫人を労っていたのを記憶している。そのとき、冨士田元彦に世話になった歌人はもっと多かったろうに、という静かな怒りがわたしの中にはあった。

  最後にお会いしたのは、どこのパーティ会場であったか。もう、好きな燗酒も召し上がれない状態だったが、それでも右手には猪口をもっていらした。これからは映画の仕事をしたいと言っておられたが、その後しばらくたって、壊死した右脚と左手を切断したと聞かされた。三首目の「左手」とはそのことを歌っている。入院先を幾度も見舞い、雁書館の再興にも気をかけていた佐佐木幸綱にとって、「つらくあれど」の一語にこめられた思いは深い。どのような多くの説明よりも、ただこの一語に尽きるという感情の濃さはあるものだ。短歌とは、そうした一語の凝縮性によって立つ詩型である。

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  そして、本集のなかで胸を塞がれるのは、やはり母、佐佐木由幾氏への挽歌一連だろう。夫である佐佐木治綱の没後、1960年から長く「心の花」の主宰を務められた。2011年2月2日逝去。享年96。告別式は、同月5日午前11時30分から世田谷区の公益社用賀会館で執り行われた。斎場を埋める弔問客の列に並んで、わたしは初めてそのお顔を拝することができた。気品をたたえた美しい遺影であった。

 

   妻と来て痩せたる貌の前に立つ臨終(いまわ)の時に間にあわずして

   大きくなったわねとわが顔を見て言いくれし(くち)今は動かず

   二月の()窓にあまねし垂乳根の母につながりとまれる計器

   エジプトの百万のデモ百万のいのち我が母のいのちは一つ

 

  「大きくなったわね」というひと言は胸に沁みる。息子がいくつになっても、母親とはそういうものだ。もう開くこともない唇をまえに、臨終に立ち会えなかった悔いとそれを上まわる感謝とが胸を塞いだにちがいない。この万感の思いのまえに言葉は無力である。愛する者との訣れはこのようにして訪れるのかという思いが、初めて全身を貫いたのではないか。三首目の「母につながりとまれる計器」とは、いっさいの時間の停止である。ただ、二月の陽射しだけが、窓いっぱいに降りそそいでいたのだろう。

  そして、「我が母のいのちは一つ」という句の前にわたしは立ち止まる。「百万のデモ」とは、2011年2月1日、エジプトの独裁政権ムバラク大統領の退陣をもとめて決起したエジプト史上最大の民衆デモで、大統領宮殿にむけて百万人が集結したと報じられた。デモを阻止しようとする政権支持グループの暴挙に死傷者も出たため、当初より危険は覚悟の決行であったろう。つまり、百万のデモは百万のいのちの行進であった。当然、デモは一人一人のいのちの集合であり、それはわたしたち一人一人のいのちの重量と等価である、と理念的にはいえる。

  しかし、「我が母のいのちは一つ」という哀惜の情に、「百万のいのち」の重量は及ばないのだ。この実感のまえに理念の力は弱い。佐佐木にとって、たった今ひとつの生を終えたこのかけがえのない命の重さは、遠くエジプトに蜂起した百万のいのちよりも切実である。百万のいのちという表現には、一人一人の顔がないからかも知れない。作品はそうは語っていないかも知れないけれど、わたしにはそう思われる。ここで文学の話を持ちだすのも気が引けるが、そうした実感から語り起こさなければ、どのような言葉も力をもち得ないと思うのだ。奇しくも、この百万人デモの翌朝、由幾夫人は世田谷の病院でしずかに息をひきとられた。

                         *

  人生七十年を過ぎれば、さまざまな思いが去来するだろう。そして作品の味わいというヤツもそれに比例して増すものだ。最後に、わたしが読んでうれしくなったのは次のような作品である。

 

   ホータレの輝く寒の身の色の刺身を口に運ぶうれしさ

   ホータレは頰垂れと説く人のいて汚えなあと二合徳利

   飲み方も生き方もまだ教えずき教えることもなしと思いき

 

  「ホータレ」とは片口鰯のことらしい。どの作品にも佐佐木幸綱という一人の男が彷彿する。汚えなあと二合徳利……ああ、確かにそう言ったのだろうな、と思わず笑ってしまう。そして旨そうだなあ、と思うのだ。そこには、鎧わず飾らないひとりの男の日常が生き生きと響いている。三首目は、息子と呑んでいるのだが、「教えることもなしと思いき」も幸綱さんらしいと思う。五臓六腑に沁みわたるとはよく言ったもので、からだの壺に酒を満たすと、からだは隅々までよろこぶのだ。まさに、ほろほろとろとろである。

 

   酒のめばほろほろとろとろそしてやがてどろどろその先のぼろぼろ