作中主体ってなんのことです

「前世?」

「前世ってなんのことです」
「鏡です」
「おばさんはそう信じているのですか」
「だって前世がなかったら私たちは生きていけませんがな」
「なぜ生きていけないのです」
「だって前世がなかったら」

「私たちはまるで」
「まるで……」

「まるでなんだというのです」
「ゆ………」

「幽霊ではありませんか」


(つげ義春「ゲンセンカン主人」台詞部分のみ抜粋)

 

作中主体がいない短歌は、成り立つものだろうか。

大きめのビルがたつ ゆっくりとたつ 新大阪できみがのりすごす   多賀盛剛

二月のはじめに参加したとある歌会で、こんな歌と出会った。

会場は新大阪駅の近く。新大阪は新幹線の乗り換え地点で、大阪駅からは約五分。淀川を挟んですぐ北側の位置にある。この歌会のために詠まれたのなら、一種の挨拶歌と言えるだろうか。

互選の歌会で、この歌には多くの票が集まったけれど、後に述べる理由で僕は自分の票を投じることができなかった。

当日配られた詠草に僕は「2020」とメモしている。二〇二〇年現在のリアリティがたしかに感じられる、と思ったからだ。令和の新時代、あるいは東京オリンピック。それらを背後に控えた空気と「大きめのビルがたつ」「ゆっくりとたつ」が志向するものは、重なっているのではないか。

ミニマルではなく、大きなものを。

高度経済成長時代のように急ぐのではなく、ゆっくりと。

それから一字空けの構造にも注目したい。二回の一字空けが使われ、多賀の歌は全体が三分割されている。

平岡直子によれば、一字空けによって短歌を三つの要素に分割するこの文体を開発したのは、宇都宮敦である。

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは   宇都宮 敦

ネコかわいいよ まず大きさからしてかわいい っていうか大きさがかわいい

平岡が宇都宮敦を論じた砂子屋書房の「日々のクオリア」二〇一八年十二月の回から作品を引用した。

読者は一読、ふわっとした印象を受け取るだろう。一首全体の滞空時間の長さ。そして息を大きく吸うのに似た、空間の広がり。

一首目の「バドミントン」の歌では、二種類の速度が「並走」していると平岡は指摘する。

>>
パート1〈真夜中のバドミントンが〉とパート3〈つづかないのは〉がロングパスでつながっているので、そこからしめだされるパート2〈月が暗いせいではないね〉は複々線の路線で急行の隣の線路を走る各駅停車のように、パート1・3の隣をちがうスピードで並走することになる。三分割の歌は潜在的に多行書きなのだ。(中略)

この方法によって、それまでは表記上の調整や、せいぜい時間的・空間的におおまかに断絶があることしか表せなかった一字空けが分岐器を設置できる場所になった。文語にくらべて助動詞が少ないという口語の貧しさは周知の事実だけど、この分岐器は口語の不利さをひっくり返すジョーカーである。かかる場所がぶれない文語の助動詞は分岐器に接続されず、文語の歌は一行以上にはならない。(平岡直子)


口語短歌は終止形と連体形が区別できないなど、文法的に接続関係が「ぶれやすい」のはこれまでさんざん言われてきた問題だ。その弱点をコントロールできるデバイスとして平岡は一字空けの意義を見直し、「分岐器」にたとえた。「真夜中のバドミントンが続かない」というシチュエーションは、挿入句「月が暗いせいではないね」によって、緩やかな「各駅停車」の時間に切り替えられる。

平岡の分析を、ここでは作中主体という視点からもう少し考えてみたい。

「パート1」では「真夜中のバドミントンが」と発語することによって、バドミントンをする主体がそこに立ち現れる。「パート2」のつぶやきが挿入されることで、主体はバドミントンをする主体と、「月が暗い」と考える主体とに分かれていき、「パート3」に至って両者は「バドミントンをしながら、うまく続かない理由を内省する主体」に統合される。

三句目の「月が暗い」は字余りだが、そこも含めて均整のとれた韻律。個人的には、破綻ぎりぎりの、どこか緊張感さえ覚える歌だ。

二首目の「ネコかわいいよ」の歌も、「まず大きさからしてかわいい」と「っていうか大きさがかわいい」の二句が並走している。詳しい鑑賞は平岡の文章に譲るとして、ここからネコの本質的な「大きさ」への感動が読み解かれる。

では、多賀の歌はどうだろうか。

大きめのビルがたつ ゆっくりとたつ 新大阪できみがのりすごす

駅の近くに、建設中のビルがある。「大きめの」や「ゆっくりと」は、いずれも主観的な、作中主体の把握であることを意味する。

悩ましいのは下句の「新大阪できみがのりすごす」だ。

ここが僕は、うまく読めない。上句で想像した「作中主体」を、どうやっても一首にしっくりと収めることができないからだ。

「きみ」が乗り過ごすのを、この作中主体はどこからどのように見ていたのだろうか。同じ電車に乗っていたのなら、黙って見ているのは不自然で、乗っていなかったのなら、乗り過ごしたこと自体を詠めるはずがない。歌会のとき、もし自分に発言の機会があれば、「この作中主体、乗り過ごす前に起こしてあげましょうよ」と冗談交じりに突っ込みを入れていただろう。

僕は作中主体がどこにいるのか気になったのだけれど、当日の議論では、なんと言うのだろう、作中主体の存在感に焦点が当たっていた。ある人は新大阪にいる「地縛霊」のようだと言い、別の人は、これは「新大阪駅」が詠んだ歌ではないかと評した。

こうやって書くと、いかにも突飛な発言に響く。しかしそういう読みに反対する意見は、まったく出なかった。参加者の多くが多賀の歌について、ほとんど同じ感覚を共有していたのだ。

作中主体ってなんのことです――という声が聞こえる。

英語で言う無生物主語構文を僕は思い出す。「地図によれば~」を “The map says…” と言ったりする、あれである。

視点は存在する。しかしその視点を担うのは、僕たちが「作中主体」の語から想像されるような存在でなくても構わない。

あなたは誰ですか。

そう叫び出したいのを堪えながら、ゲンセンカンの老婆のように、「だって作中主体が、作中主体がなかったら、僕たち歌人はまるで……」と絶句する自分。

宇都宮の歌では、ちゃんと一人の作中主体が存在する。たとえ途中で「分岐」しようとも、最終的には一人の人間に収束することがわかっている。

先に引用した平岡の文章で重要なキーワードは「分岐器」と、もうひとつ「しめだされる」ではないだろうか。

「分岐器」が設けられた作品では、異なる位相の言葉が並走する。言い換えれば、分割された「複線」構造を内包する作品では、本来「しめだされて」しまいそうな異質な言葉が、しかし排除されることなく一首に同居しているのだ。

もっともわかりやすい例を挙げよう。

クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ   佐クマサトシ

ウェブサイト「TOM」から。平岡も二〇二〇年二月の「日々のクオリア」で、この歌をいち早く取り上げている。

よほどのツンデレでもないかぎり、「好きだ」と「好きだというのは嘘だ」は同時に言うことができない。どちらかの言葉が仮面のはずなのだ。

宇都宮の「ネコかわいいよ」の歌も、さりげなさすぎて気づきにくいけれど、「大きさからしてかわいい」と「大きさがかわいい」は、全然違う話をしている。前者は実存的な、後者は本質的な「かわいさ」だ。それを「っていうか」のくだけた日常語ひとつで切り替え、読者の目の前に並べてみせる。ルビンの壺のように。

一字空けは、僕たちの認識の境界をナチュラルに越えてしまう。

虚と実の境界。

あるいは、劇とその制作現場の境界。

いつ頃からだろう。僕は「作中主体」というものを想定すると、かえって解釈しにくくなる作品が増えてきたような気がしてならない。作者も、読者の側も、もはや統一された作中主体像を前提にしていないかのようだ。

それは「人間」を否定する行為だろうか。

僕は望月裕二郎や笹井宏之の作品を思い浮かべる。「主体」という発想から離れて、もっと「言葉」そのものの主体性を信じること。「人間」のいない短歌がどのように成り立つのか、本コラムで引き続き考えていければと思う。

真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ   笹井宏之

 

二月の終わり。JR京都線の新快速に乗って僕は家に帰ろうとしている。iPhoneでニュースやツイッターをチェックしていると、車掌のアナウンスに続いて、突然、VOCALOIDそっくりの人工音声が流れ始めた。


「このためお客様におかれましては、テレワークや時差通勤といった取り組みを積極的に行っていただきますようお願い申し上げます。手洗い、アルコール消毒や咳エチケットは感染症対策の基本です。駅構内や車内における――」


虚構の声。僕は吊り革にも手すりにもつかまることができずに立ち尽くす。

現実は「分岐」してしまった。現実はどこに行ったのか、現実は、はたしてどこに行くのだろうか。

……………………。


 

平岡直子「日々のクオリア」二〇一八年十二月十九日
https://sunagoya.com/tanka/?p=19650
同・二〇一八年二月九日
https://sunagoya.com/tanka/?p=18193

TOM
https://tomtanka.tumblr.com/

宇都宮敦歌集『ピクニック』(現代短歌社)
http://gendaitanka.jp/book/kashu/033/