平岡直子


ネコかわいいよ まず大きさからしてかわいい っていうか大きさがかわいい

宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社:2018年)


 

今年もあとわずかなので、ということはわたしの担当回もあとわずかなので、今日からの五回、いま生きている歌人のなかでわたしがもっとも重要だと思う五人を連続で取り上げようと思っています。という大きなことを言ってみたところで、ひとりめは刊行されたばかりの歌集のその大きさが話題の宇都宮敦。実際のところ〈大きさ〉はこの歌集のわりと大事なファクターでもある。

 

宇都宮敦の発明は、それまで二分割しかなかった短歌を三分割にしたこと。宇都宮敦が重要な歌人なのは短歌の貧しさも口語の貧しさも逆手に取りつづけるパイオニアだからだけど、なかでも短歌の三分割化は小田急線が複々線化してそれまでの混雑が大幅緩和されたことくらいに画期的なことなのである。この三分割法はたとえば以下のような歌にわかりやすい。一字空けをはさんで一首が三つに分かれている。

 

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは/宇都宮敦
つぶやきは 北極グマがゆっくりと水にとびこむ 聞き流していい

 

これらの歌は最初は倒置の亜種として発生したのではないかと想像する。たとえば一首目に散文的な原形があるとしたら〈真夜中のバドミントンがつづかないのは月が暗いせいではないね〉という一文になるだろう。これは散文的には意味は取りやすいけれど、韻文的にはやや尻すぼみ。だけどそこに〈月が暗いせいではないね 真夜中のバドミントンがつづかないのは〉という倒置を入れると韻文としての息を吹き返すし、そこにさらに倒置in倒置が入ったのが最終形態で、たしかに語順としてはこれがベストだと思う。そしてこの倒置in倒置こそが歌を三分割にするコロンブスの卵だったのではないだろうか。
倒置in倒置は倒置じゃなくなる。パート1〈真夜中のバドミントンが〉とパート3〈つづかないのは〉がロングパスでつながっているので、そこからしめだされるパート2〈月が暗いせいではないね〉は複々線の路線で急行の隣の線路を走る各駅停車のように、パート1・3の隣をちがうスピードで並走することになる。三分割の歌は潜在的に多行書きなのだ。挿入句のように浮きあがるパート2は、パート1・3に対するルビのような役割を果たしていると思う。
この方法によって、それまでは表記上の調整や、せいぜい時間的・空間的におおまかに断絶があることしか表せなかった一字空けが分岐器を設置できる場所になった。文語にくらべて助動詞が少ないという口語の貧しさは周知の事実だけど、この分岐器は口語の不利さをひっくり返すジョーカーである。かかる場所がぶれない文語の助動詞は分岐器に接続されず、文語の歌は一行以上にはならない。

 

生きていることはべつにまぐれでいい 七月 まぐれの君に会いたい/宇都宮敦
どらやきに餅が入っていて君がよろこぶ 餅はいいね 栗もね
君のかばんはいつでも無意味にちいさすぎ たまにでかすぎ どきどきさせる
三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

 

いろいろなバリエーションの三分割の歌。3つのパートの距離感がわかりやすく遥かなもの、逆にいっけん近くて複雑なもの、いろいろあるけれど、それぞれの歌になにか大きなすきまがある。掲出歌はこの中だと〈どらやきに~〉の歌に近いだろうか。話がつながっているようで大きなずれがあり、話のずれと句またがりによるずれのあいだにずれがあり(ややこしい)、それらのずれをまたぐ言葉はとても深いところから浮かびあがってきたかのような手ざわりをまとう。
掲出歌でつかわれている形容詞が「小ささ」ではないことには注意を払いたい。この歌は「かわいさを箇条書きにしようと思ったけれどよく考えたら一つ目しかなかったわ」というようなことを言っているのでも、「かわいすぎて思考停止してしまった」というようなことを言っているのでもないと思う。〈まず大きさからしてかわいい〉と〈っていうか大きさがかわいい〉を並走させることで、その行間というべき場所で、猫という生き物に、というかすべての生き物にそれぞれの〈大きさ〉があるという事実に感動しているのだと思う。

 

宇都宮の歌と好対照な作風としてわたしがここで思い出すのは五島諭の歌である。五島の歌は多行書きの世界を生クリームを絞るあれみたいに一行で絞りだしていると思う。

 

「空耳」にすこし長めのルビをふる「しろじにしろのみずたまもよう」/五島諭

 

ついさっきまでの気の散りようの面影をのこしたまま言葉が一行のなかに整列する。さまざまな可能性が存在すること自体ではなく、さまざまな可能性が一本化されていく無惨さに人は青春性を見出すのだと思う。そういう意味では、箍が外れたテンションで「ふつう」を浮かれていても宇都宮の歌は青春歌のようで青春歌ではない。この歌集にあるのは、青春性からの回復である。