箇条書きで述ぶる心よ書き出しの一行はほそく初雪のこと

大口玲子『東北』(雁書館、2002年)

 


 

20代のはじめに大口玲子の歌に出会い、その後、大口の歌集をお守りのようにして持ち歩いている時期があった。大口には日本語教師としての歌があり、鬱(と言ってよいのかどうか、正確にはわからないが)に苦しむような歌がある。僕も大学で日本語教育を学んだし、鬱に羽交い絞めにされていたような時期もあって、だからこそ大口の歌に惹かれているのだろうな、とつい最近まで漠然と思っていた。自分を大口の歌に投影していたのだろうな、と思っていた。ただ、歌人や歌を、というかどんなことでも、それを「好き」と思う理由なんてそう単純なものではないし、そもそも理由など単なる後付けで、本人にはよくわかっていないことも多いし、だいたいそれを「好き」と呼んでよいのかどうか怪しい場合だってある。

 

房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき
形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかった」と二度言はせたり

/大口玲子『海量』

 

つねに頭の隅に置いていたのはたとえばこのような歌で、あちこちに引用して、この歌の何に惹かれたかということをそのつど熱弁していた気がする。「房総へ」という、広く、茫漠とさえしているような景から「そののちに」という語をわざわざ経由してふいに現れる「別れき」の、その体感としての「つきとばさるるやうに」は、読者にとっても唐突だ。その唐突と驚きが余情に変換され、じわじわと悲しみを運んでくる。「二度」「言はせたり」には「形容詞過去」という文法用語の無機的な感じをテコにしてむしろ増幅されてしまうような屈託がある。

 

肌脱ぎの樹木の力 今朝われは総雨量もてひと憎みをり/大口玲子『東北』

 

これは、他者に向かう負の感情をこんなにも大きく強く表現してよいのだなと、勇気づけられた歌。それから同じく『東北』には、

 

約束を一つも持たず人と居てわれはもうじき三十歳(さんじふ)になる
それはそれは切なき封書届けども浅川マキは夜更けに聴かむ

/大口玲子『東北』
※( )内はルビ

 

があって、浅川マキをこの歌ではじめて知った僕は、なんというか、同じ二十代(大口とは8つほど齢がちがうが、もちろん「歌の作者」と「それを読んだ時点での読者」としての話)でもこうも成熟度に差があるのかと、「大口玲子」をとても遠い存在に感じたりした。自分との共通項を見出し得ていたからこそ、そういう違いが強調されて思われた。さらに、以前この日々のクオリアで石川美南さんが取り上げていたこういった歌、つまり社会との接続を歌によってさらに太く強くしていくような歌、連作にも、僕は驚いていた。やはりよく引かれるが、

 

ひたかみと唇(くち)ふるはせて呼べばまだ誰にも領されぬ大地見ゆ
白鳥の飛来地いくつ隠したる東北のやはらかき肉体は

/大口玲子『ひたかみ』

 

という風土を意識させる大きな歌にも圧倒されたし、そう言えば、

 

日本語は、山之口貘の日本語は鈍く撓へる竹の抑揚/大口玲子『東北』

 

によって僕は山之口貘を読み始めたりもしたのだった。

 

きりがないのでやめます。

 

ただ、大口の歌の本質というのは、切実やのっぴきならない感じとはちょっと別のところにもあるのだろうな(あるいはそれは、「切実」ということと表裏一体のものでもあるはずだが)と最近は思っている、というのが本題です。それは要は、ユーモアとか余裕といったものに通ずる、どこか「開き直り」にも近いような、あけっぴろげであからさまなスタンス、余裕のようなもの、を指して言っているのだが、ごくわかりやすいところで言えば、

 

労働をせぬ一日の生ビールおはもじながら二杯目を飲む
飲んで言ふわけぢやないけどかはゆきもの、犬のヒゲ夫の髭われのひげ

/大口玲子『ひたかみ』

 

「おはもじ」は、「恥ずかし」の「は」だけもってきて「御」をつけて「御は文字」という、いわゆる女房詞と言われてきたような語だが、ここにはもう、「おはもじ」はタテマエです、という気分が思いきり見えている。たぶん恥ずかしがっていない。心底生ビールを喜んでいる。それから、「飲んで言ふわけぢやないけど」という、婉曲に似た前置きもほとんど意味をなしていないと思う。「ヒゲ」「髭」「ひげ」の使い分けも、「犬」も「夫」も、一首の要ではない。「われ」に「ひげ」がちょっと生えたときがあって、それを「かはゆきもの」とおもしろがっているところこそが目立つ。それから例えば、大口の『桜の木にのぼる人』には「テンテケテン」という連作があって、

 

きつねが踊りおかめさんが踊りひよつとこが踊り始めて子は立ち上がる
貰ひたるひよつとこの面のくちびるの尖り真剣に子は真似てをり
踊り終へひよつとこが人に戻りゆくさびしさに子はまだ気付かざる
パレードは二時間続き今宵われは一生分のひよつとこを見き

/大口玲子『桜の木にのぼる人』

 

といった歌が並ぶのだが、三首目には、祭りということを超えてどこか人の生の真理にまで到達しそうな眼差しが見えるけれど、一首目の「立ち上がる」にはデフォルメされたようなおかしさもあるし、二首目は、これはまず笑ってしまってよい歌だと思う。文体上、「子」を見つめる表情まで真剣そうだから見過ごしてしまいそうになるけれど、真顔で冷静にそれを見つめる母としての姿も含めて、やっぱりおもしろいと思う。そして特に四首目は笑う以外にない。うんざりしてさえいるのかもしれない。

 

文体、語の構成、周囲との距離感は「房総に」や「形容詞過去」の歌のような「大口玲子」のままで、その真顔のままで唐突におもしろいことを言ってくる。大口さんというのはお笑いにすごく厳しい人なんじゃないか、などということまで勝手に思ってしまうような感じがある。その「真顔」と「笑い」の取り合わせが、歌にどこか「開き直り」「あけっぴろげ」「あからさま」という雰囲気を引き込んではいないだろうか。ちょっと意地悪というか、悪戯好きの表情みたいなものも見えてくる。だから実はその、

 

房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき

 

の「つきとばさるるやうに」の唐突にも、ほんの数パーセントだけ、ユーモアの成分を感じ取れるのではないかと僕は思う。「つきとばさるる」の強烈さによって想像できる映像は、どこかデフォルメされている。そしてそのデフォルメのぶん、ほんのわずかにユーモアを感じられるし、つまりそこには、余裕が感じられる。別れ「き」と、きっぱり示された過去の、その別れから流れた長い時間によって作り出された余裕なのかもしれない。

 

今日の一首。

 

箇条書きで述ぶる心よ書き出しの一行はほそく初雪のこと

 

この心細い感じ、静かにうつむくような感じもまさしく「大口玲子」のものだ。「心」を、しっかりと理路を組み立ててわかりやすく述べるのではない。出来事と心情、心情と心情を結びつけながら語るのではない。理路を無視するから、内面を深く覗き込むようにして表現されたものではない。おそらく手紙に、自分の心情をぽつぽつと書いていく。置いていく。思ったままに、ただ思った順に述べていく。自分の心情を突き詰めていくのに疲れてしまい、だからこそ「箇条書き」というふうになってしまうのだろうな、と僕は長く読んでいた。苦しくさびしい歌だ。ただ、そこには、上に述べたものとはすこしちがうかもしれないけれど、どこか開き直りのようなものを感じてもよいのかもしれない、とも思う。それは決してわがままなものではない。理路を無視する。脱力して、心を投げ出す感じ。そのように読むとき、そこにはその手紙の相手を頼るような、ちょっとした甘えも見てとれる。その「箇条書き」を受け取ってくれる人の存在を感じることができる。薄く降る「初雪のこと」を共有したい相手がいる。初雪を見せたい人がいる。

 

「箇条書きで述ぶる心よ書き出しの」という、濁音の目立つ、重い印象の措辞がもたらす「大口玲子」感と、そこに添えられる「ほそく」や「初雪」の「一行」。その両者の間にたぶん、ほんのわずかだけ余裕のようなものがあり、ここではそこに、ほの明るく他者の姿も見えてくる。

 

たそがれの岡田劇場ポップコーンは売り切れてゐて人の少なし/大口玲子『ひたかみ』