タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた?

山崎聡子「生きなおす」(「短歌研究」2018年10月号)


 

山崎聡子の歌をわたしはずっと侮っていたのかもしれない。短歌には「上手さ」という諸刃の剣があって、わたしの目には山崎聡子は上手くなればなるほど失われるタイプの魅力を携えて登場した歌人として映っていた。だから、結社になんて入ったらだめだと思ったし、子どもの歌なんて作ったらだめだと思っていたのに、わたしがそうやって勝手に不安視する方向へどんどん進みながら第一歌集以降の山崎の歌はよくなりつづけていると思う。
長く、定型感覚よりも生理的な選択が優先されている、と判断することでしか山崎の歌において生々しく言葉が濡れている理由を説明できなかったのだけど、近作を読んでいると、もうすこし根源的なうしろめたさを抱えていることが歌の湿度の理由であると気づかされる。第一歌集ではノスタルジーに包まれていてその一部のようだったうしろめたさが歌の前面に露出してきている。

 

掲出歌は〈明け方〉という時間帯そのもののようにあるべき境界線が淡い歌。〈タンク山にのぼった〉という叙述が夢と現実のあいだを行き来し、過去と現在のあいだを行き来する。たしかなものがなにもないなかで、〈わたし〉の顔の上を〈あなた〉の顔が通りすぎていくような一首。
〈タンク山〉というキーワードでピンとくるだろうか、この歌は一九九七年の神戸連続児童殺傷事件を題材にしている。つまり、〈あなた〉にはおそらく「酒鬼薔薇聖斗」が想定されているものと思われる。彼が作者の山崎聡子とは同い年であることを補助線にすると、「彼はわたしだったかもしれない」という意識が強烈にあることは理解しやすいかもしれないけれど、それにしてもこの歌の「彼はわたしだったかもしれない」度はちょっと異常に高い。一首のほとんどを〈あなた〉の経験に明け渡していて、それを短歌の一人称性をテコに〈わたし〉の側に裏返すという手順には、実体験を夢でなぞりなおすのと似た手ざわりの淡さがある。だからこの歌はほとんど自分の経験のことを語っているようである。ほんとうは自分がしたことだったのに忘れてしまって、それを夢のなかでだけ思い出しているかのような。
迂闊な歌だと思う。山崎の歌の背後にはつねに記憶に対する不信があって、自分が重要なことを忘れているような、忘れつづけているような不安が流れている。記憶のまだらな部分が、そこを埋めようとする強迫観念が働いているかのようにさまざまな偽の記憶を吸着させる。掲出歌のみる夢もその一環だと思うけれど、それにしてもひとつの仮定をつかみとる速度が速すぎて、その仮定を置いた場合に時間差で振りかかってくるはずの重みが心配になる。
その心配をするとき、読者はすでに歌とうしろめたさを共有してしまっている。この歌と同じ種類の迂闊さが第一歌集では戦時下の少女たちに憑依した連作を作らせ、あるいは歌集の主人公の兄弟姉妹をどんどん増やした。同じ迂闊さがさまざまな対象に身軽に移入させ、次の瞬間にはそれを恥じる表情をみせる。技術や詠いかたのバリエーションを得ていくことが、手ごたえを知りつくして一首を完全に逆算からつくるような学習をさせないのは、文体の洗練とは無関係に迂闊さとうしろめたさが再生産されつづけているからだと思う。

 

青い舌を見せ合いわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌/山崎聡子
舌だしてわらう子供を夕暮れに追いつかれないように隠した
烏賊の白いからだを食べて立ち上がる食堂奥の小上がり席を
蟻に水やさしくかけている秋の真顔がわたしに似ている子供
遮断機の向こうに立って生きてない人の顔して笑ってみせて

 

こういった秀歌のほのかなこわさの根源にも、身近な死に対して自分が今のところなぜだか常に生の側にいる、ということに対する飲みこめなさ、うしろめたさを感じる。
掲出歌の出典についてすこし補足しておくと、連作「生きなおす」は今年『短歌研究』でシリーズ連載された「平成じぶん歌」という特集に掲載されたもので、これは平成の三十年を短歌三十首で振り返るという趣旨の企画である。作者の実人生と社会との交差点に短歌を置くことを暗黙のうちに求められるこういった企画に参加する場合、普段の作歌と基本的な作業はほとんど変わらないという歌人もいれば、なにを注文されているのか意味がわからないという歌人もいただろう。個々の作風と企画との相性が最初に炙り出されること自体を読みどころと言うこともできるけれど、全体を通して難癖をつけるなら前者タイプの作品は企画によって作者からあらたに引き出されている面が少なく、後者タイプの作品は単純にしんどそうだった。そして、そのなかで山崎の連作のテンションは群を抜いていたと思う。
移入の身軽さという特性が、過去の自分自身にまでフラットに移入することを可能にし、そのことがほかの作者の作品には類をみない臨場感をもたらしていたのではないか。

 

山崎聡子の歌をわたしは侮っていたのかもしれない。それが誤りだったことをこうして目撃しつづけるときに発生するうしろめたさとよろこびが入り混じったこの感覚は、不思議なことに山崎の作品そのものの印象に近いのだった。