染野太朗


帰ったら雑穀ご飯でも食べよ新宿代々木原宿渋谷

北山あさひ「金持ちごっこ」(「まひる野」2017年5月号)

 


 

北山様、北山様と呼ぶ声に痴れてゆくなりChinzanso Tokyo
檜風呂に轟々満ちてゆくお湯の無邪気を見たり 金持ちはこわい
土曜日の椿山荘にひしめける新郎新婦の年収いくら
苛立ちはふいに兆してあの森もあの絵も燃やしたろか 燃やせぬ

/北山あさひ「金持ちごっこ」

品川の水族館にベニサケもカレイもタラもおらず東京め
才能と運と人脈 東京はやっぱり人をころす街なり

/北山あさひ「札幌/東京/札幌」(「まひる野」2017年12月号)

 

一首目、とてもふしぎな歌であり、そしていかにも北山あさひ的(もちろん、北山の歌のすべてではないけれど)だと思う。「まひる野」では縦書きで発表されていて、半角の「Chinzanso Tokyo」の文字は横に寝ている。このローマ字表記は実際に椿山荘内のあれこれに使われているのだろうし、椿山荘のロゴにも(全部大文字のものが)あしらわれているようだけれど、あえて歌のなかでこのように使われると、それが非日常的な空間であるということの強調やその「金持ち」的なたたずまいへの皮肉といったことが滲んで来なくもない。ただそのような批評的な感じよりもまず先にちょっと笑ってしまう。決め台詞のように、縦書きのなかでわざわざ横に倒してローマ字で日本語が表記されている、その表記自体もなんだか可笑しい。そしてそこにおそらく自分も宿泊している。椿山荘という非日常の空間で、「金持ち」の空間で、北山「様」と呼ばれて、自分が自分でなくなっていく。椿山荘とそれが象徴するものをおちょくっているような感じもありながら、どこか真顔で、椿山荘の手触りを確認しているようなところがある。椿山荘的なものに囲まれ「痴れてゆく」人物と、「痴れてゆく」と自分を認識する人物と、歌に「Chinzanso Tokyo」を配する俯瞰した人物とが溶け合うように一首のなかに立っている。それがその「おちょくる」と「真顔」の両立を可能にさせている。変な言い方になるが、僕には、主観と客観と俯瞰が代わるがわるあらわれて、ちかちかしているように見える。そのちかちかの合間に余裕としての笑いがある。

 

このトーンというかスタンスというかを保って効果的に配されるのが、極論や偏見。例えば二、三首目の「金持ちはこわい」の断言と「年収いくら」という俗で反射的な反応がそれにあたると思う。それは本心からの声のようにして歌に配されるのだけれども、その本音が極端に粗いから、偏見に満ちているから、あまりに俗だから、本音が本音でありながら、つぶやきでありながら、心情よりもその「偏見」「俗」であるということそのもののほうが目立ち、極端に言うと、もはやそれは一首における修辞でしかない、という感じがある。一首におけるつぶやきは心情や余情をかもし出すはずだけれど、北山の歌を読んでいると、それは主体の心情よりも、歌そのものをよりおもしろく生かすためのものとして配されているように感じられるときがある。つぶやきが主体の心情でなく、歌の質感、色味、雰囲気そのもののほうを目立たせる、ということ。心情が前面に出ていながら、歌の内部においてそれは単なる心情のように見えない。そういった点において、北山の歌はきわめて修辞的だと思う。にもかかわらずその修辞の要が「主体の本音」「心情」という形をとっているから、例えば上に見たような主観と客観と俯瞰が溶け合ったような印象をもたらすのかもしれない。それから、現実の肌理、複雑さを認識していながら、その肌理を無化するように本音がはたらく。つぶやきの内容に、現実という複雑が、単純化されてしまう。「痴れてゆく」自分を繊細に感受しながらそれを「Chinzanso Tokyo」に束ねてしまう。檜風呂の匂いや水の勢いや音をこまやかに捉えながら、それを金の象徴としてひとくくりにする。複数の「新郎新婦」は「ひしめける」とマスでとらえられた上にやはり金をしか想像させない。全部をひとくくりに、いっぺんに燃やしてしまおうとする。五、六首目にもそのようなところがある。にもかかわらず、そのつぶやきが、極端である、俗である、無化するようなたたずまいである、というまさにその点において、本当の無化には至らない。あくまで修辞なのである。だから笑える。

 

そして、その上で忘れてはならないのが、四首目に象徴される自らへの眼差し。この「燃やせぬ」は、結局そんな度胸はないこと、「Chinzanso Tokyo」的なものに痴れてしまえる自分がいること、自分のなかにも「Chinzanso Tokyo」的なものがあることへの自覚でもあろう。

 

北山の歌のごく個性的なたたずまいは、主観に溺れることを拒むその徹底したありように担保されているのかもしれない。それが歌のつぶやきを修辞のほうへと押し流してしまう、というような。

 

さて、今日の一首。これも笑える。東京での、椿山荘でのひとときを終えて「帰ったら」、ということだろう。「Chinzanso Tokyo」に対比される「雑穀ご飯」である。空虚な眼差しで、山手線の内回りの順番で地名(駅名)を歌に配していく。丁寧に四つも。そしてその脱力した眼差しに笑う。

 

ただ僕は、空虚を感じ取った段階で不意に、なんだかぞっとした。〈東京〉の細部が北山の空虚な眼差しによって言葉として単純化され、抜け殻にされている。主体が〈東京〉に屈服してしまったようにも読めるけれど、その屈服したのちの眼差しによって、逆に〈東京〉が廃墟にされているように思える。「東京め」と歯ぎしりされたり「才能と運と人脈」とか「やっぱり」とか「ころす街なり」とか単純化されて言われるほうがまだ〈東京〉は生きていられる。傲慢でいられる。主体を苦しめていられる。読者として真顔になりながら、でもどこかで笑っていられる。けれども今日の一首はちがう。主観や客観や俯瞰の溶け合いが投げ出され、抜け殻になり、空虚を引き込んでいる。言葉だけにされてしまった、新宿、代々木、原宿、渋谷。今日の一首は、まぎれもない呪詛だと思う。

 

これからもずっと人間 さびしくて私は不死身の杉元が好き
夏ばらをすずめは揺らしばらが鳴るすずめが鳴る もう帰るんですわ
遠のいてしまうとしてもがたんごとん路面電車は夕風のなか

/北山あさひ「カニと餃子」(「ヘペレの会活動報告書」vol.1)