真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウォーリーの声

枡野浩一『てのりくじら』(実業之日本社:1997年)


 

ここだけの話だけど短歌はごまかしがわりと効く。そこが短歌のいいところだと言ってもいいかもしれないけれど、ごまかしの効かない文体を貫いている酔狂な歌人がひとりいる。枡野浩一である。
短歌のごまかしは日本語と定型のあいだに発生する。日本語と短歌定型はぴったりにできているわけではないので、歌をつくるときにはかならず日本語と定型のあいだを取り持つ必要がある。カーテンレールとカーテンのようなものだ。日本語という生地を定点で固定しながら適度にたるませることで窓に釣り合っている格好になり、一首が完成する。そしてそのたるませかたのデザインに作家性が出るのだと思う。美しいドレープをつくったり陰影を計算することが基本的な作業だとしても、カーテンの襞のたるみは多少の計算ミスや余剰、あるいは不足を引き取ってくれる。適度な図々しさがあれば、計算ミスによる変わった形のドレープのことを、こういう斬新なデザインです、と言い張ることもできるし、偶然性も短歌に不可欠なことを思えば、その図々しさは悪いことでもないと思う。
これに対して短歌定型から日本語を浮かせないのが枡野浩一の短歌の文体で、カーテンのたとえを引っぱるなら、窓に直接布を糊貼りしているようなものである。定型から日本語がわずかに浮いても皺として目立つだろう。だからわたしは枡野浩一の短歌を続けて読んでいると、次の一首に自分が「皺」を見出してしまったらどうしよう、という妙な不安が湧いてきてすこし緊張するのだけど、今のところ、出版物だけでなく、ネット上で単発的に発表される即興性のつよい作品においても大きな皺に出会ったことはない。

 

ウォーリーに声などあっただろうか、わたしはその声を思い出せない。「探せ!」という声は聞こえても、ウォーリーには台詞はなく、探されているばかりだ。枡野浩一の短歌にも声がないと思う。作者の固有の声は定型と日本語のあいだに吹きこまれる。だとしたら、この歌に書かれているのは声を持たない者同士が聞きとれる声であり、シンパシーだ。ウォーリーは探されたくない。その他大勢のなかに安らかに埋没していたい。それは作者の望みの代弁でもある。探され、指をさされるウォーリー的な「特定のひとり」の解体への試みは次のような歌からも読みとれる。

 

毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである/枡野浩一
あの夏の数かぎりない君になら殺されたっていいと思った
わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに
この星でエイズにかかっていないのはあなた一人だ 孤独でしょうね
階段をおりる自分をうしろから突き飛ばしたくなり立ちどまる

 

二首目は小野茂樹の名歌〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ〉の本歌取りだけど、本歌のほうでは数かぎりない表情のブレが〈たつた一つ〉の表情へ収束するところこそがハイライトなのに、この歌はそのハイライトを忌避して〈君〉を散らかしっぱなしにしてしまう。〈たつた一つ〉を得る代わりに〈(私が)殺され〉るのも示唆的だと思う。三首目の〈一人暮らしの部屋〉とは、ひとりの作中主体がフィットする器としての短歌の別名だし、この作者はそこから出ていきたくて仕方ないのだ。
文体が志している無名性とこれらの歌の内容は一致する。しかし、文体から名前を消せば消すほど結果的にその特殊さが際立ち〈枡野浩一の短歌〉でしかありえなくなっていくアイロニーには、短歌がいかに個人のための定型なのかということがあらわれていると思う。その反転が「エイズに感染していない孤独」のようなねじれたことを言わせるのだろう。五首目のような歌に思い出すのは『100万回生きたねこ』という絵本だ。100万回死んだ作中主体。作中主体がくりかえし殺されてはくりかえししつこく甦るなにかのデモンストレーションのような現象を垣間見るとき、短歌に枡野浩一がいてよかったかどうかはわからないけれど、枡野浩一に短歌があってよかったと思う。そして、文学においては後者のほうが、作者が必要とされるのではなく必要とすることのほうが、よほど大切なことなのではないかとも。
枡野浩一は替えがきかない歌人だと思うけれど、それを説明するのは方法論ではなく結果論だ。彼が弟子に教えているのも同じ山を登る道などではなく、「ごまかすな」の一語であるようにわたしにはみえる。